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中世ヨーロッパ世界

T.ヨーロッパ封建社会の成立

1.ゲルマン民族の移動

Q:ゲルマン人はどんな家に住んでいたのですか。

A:麦わらなどを葺いた平屋です。外は垣で囲まれ、菜園もありました。

Q:ゲルマン人はどんな物を作ったり、飼ったりしていたのですか。

A:農業は小麦・大麦が中心です。牧畜は牛・馬というところでしょう。特に牛は主要な食糧源でした。

Q:フランクとはどこから来た言葉ですか。

A:自由あるいは勇敢という意味です。

Q:ゲルマン民族の移動というが、人数はどれくらいだったのか。

A:西ゴート族については100万人と推定されています。全体の人数はわかりません。

Q:ローマはなぜゲルマンの移動を防げなかったのか。

A:実をいえば装備・訓練ともローマ軍の方が上回っていたのですが、ローマの社会全体が腐敗していたことの反映でしょうか。それにゲルマン側が一点に集中して突破できたのに対し、ローマの方は長い国境線を守る必要がありました。

Q:ルパン3世のカリオストロの城という映画の中でゴート札というのが出てきたのですが、そんなお札は本当にあったのですか。これは東ゴート、西ゴートのゴートと何か関係があるのですか。

A:いろいろ調べてみたのですが、まったくのフィクションと思われます。

2.ヨーロッパ世界の成立

Q:ヨーロッパという言葉の意味は何か。

A:ギリシア神話によると、主神ゼウスが牛に変身してフェニキア王の娘エウロペを盗み出し、クレタ島に運びました。そこでフェニキアから見たクレタ・ギリシア一帯をヨーロッパと呼ぶようになった、というのですが・・・。

 なお、語源的には、セム語のereb(日没)からきているそうです。

Q:フランクのクロヴィスがカトリックに改宗した時、部下からの反対はなかったのですか。

A:3000人の部下とともに改宗したといいますから、反対はなかったのでしょう。またフランクはまだアリウス派の影響を受けていなかったので、より抵抗が少なかったと思われます。この改宗の背景には、フランクに仕えていたローマ系文化人の働きかけがあったようです。

Q:ピピンは、どうやって王位を奪ったのですか。

A:ローマ法王の権威を利用しました。それに当時のフランクの王はまったくの名目的存在で、実権はピピンが握っていました。

Q:フランクのカール大帝の時代、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文化が繁栄したというが、どのような文化が繁栄したのか。

A:学校が整備され、多くの学者が宮廷に招かれ、古代ギリシアの科学・哲学などの研究が行われました。

3.封建社会の成立

4.封建制度とはなにか

Q:恩貸地制というのは、どのくらいの期間、土地を貸すのですか。

A:最初は5年でした。それが後に終身、さらに世襲となります。地代が安い、あるいはタダだったため、恩貸地と呼ばれました。

Q:領主はどうやって決めるのか。

A:基本的には王が決めます。手柄を立てた部下に領地を与える、以前からその地方で広い領地を持っていた豪族を領主にするなど、様々の場合があります。

Q:荘園では小麦以外にどんな作物を作っていたのですか。

A:大麦、ライ麦、カラス麦などです。

Q:1回の軍役奉仕で使われたのは何人くらいなのか。

A:領主の土地の広さ、戦争の規模により異なります。日本の江戸時代の場合、1万石につき185人となっていました。

Q:中世ヨーロッパの技術革命に水車の普及というのがあるが、水車はいつ頃から使われていたのか。

A:紀元前1世紀に、地中海と中国で始まりました。最初は横回しだったそうです。

Q:なぜ馬の足の裏に蹄鉄(ていてつ)をつけるのですか。

A:馬の蹄(ひづめ)を保護し、運動能力を飛躍的に高める役割があります。

5.中世のキリスト教

Q:托鉢教団は何人ぐらいで成り立っていたのか。

A:フランチェスコ派については数千人とあります。その他については分かりません。

Q:カノッサの屈辱の時の法王グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世の拠点はそれぞれどこだったのか。

A:法王はローマです。皇帝は当然神聖ローマ帝国の都なのですが、これがはっきりしません。ケルンではないかと推測されますが・・・。

Q:ウォルムスの協約を結んだのは誰か。

A:皇帝ハインリヒ5世と法王カリストゥス2世です。

6.ビザンチン帝国

Q:どうして東ローマの皇帝はギリシア正教の首長を兼ねる必要があったのですか。他にやる人がいなかったのですか。

A:起源はコンスタンティヌス大帝にさかのぼります。皇帝崇拝の伝統が残っていたことと、皇帝・教会とも互いに対立せず協力した方がよいとの判断があったためです。

Q:ユスティニアヌスが北アフリカなどに攻め込んだ時、兵士はどれくらいだったのか。

A:一連の征服を成功させたのはベリサリウスという名将でした。イタリアに攻め込んだ時の兵力は2万2000人だったそうです。しかしベリサリウスの活躍にもかかわらず、ユスティニアヌスは彼に対し冷たい態度をとり続けたといいます。

Q:プロノイア制の隷農というのはどこから連れてこられたのか。また、彼らはただ働きだったのか。

A:皇帝が部下に対し、ある土地とそこに住む人間のすべてを与えます。その瞬間からその農民たちは隷農となるわけです。隷農たちは自分の主人に対し、貢納の義務を負っていました。

Q:スラヴ民族のスラヴというのはどういう意味か。

A:様々の説があります。1)栄光・誉れを意味するスラーヴァから来ている。 2)言葉を意味するスローヴォからきている。3)一部族の長の名前だったスロフが民族全体を指すようになった。

 なお英語で奴隷をslaveといいますが、これは本来のスラヴという言葉の意味とは関係ありません。

 

U.ヨーロッパ社会の変化

1.十字軍

Q:十字軍で最大の兵力は第何回の時か。

A:第2回の20万人ではないでしょうか。ただしイェルサレムにたどりついたのは1%に満たなかったと記されています。

Q:非公式の第5回十字軍でフリードリヒ2世が話し合いによりイスラムとの共存を実現したのに、なぜ第6回、7回と十字軍が続いたのですか。

A:共存に反対するイスラム勢力が再びイェルサレムを占領したためです。

Q:なぜルイ9世はチュニジアを攻めたのか。

A:ルイ9世の弟シャルル・ダンジュー(シチリア王)は地中海の支配を目指しており、この目的のために兄の十字軍が利用されました。

2.都市の発達

Q:定期市は年に何回ぐらい開かれていたのか。

A:シャンパーニュの場合、1・3・5・6・9・10月の年6回、それぞれ違う町で開かれていました。1回につき6週間行われました。

Q:定期市ではどんなものが多く売られていたのですか。

A:毛織物、木材、穀物、海産物などです。

Q:シャンパーニュ地方で作られる酒・シャンペンはいつごろからあるのですか。

A:17世紀からです。

Q:東方貿易が発達したというが、香辛料の他にはどのようなものが取り引きされたのか。

A:サトウキビ、ほしブドウ、綿織物、絹織物などです。

Q:ハンザ同盟について教えて下さい。

A:ハンザ同盟都市には「触地法」と呼ばれる法律がありました。外部の人間の荷車が町を通過する際、積み荷の一部が道路に触れると、その荷物を没収できる、というものです。そのため、ハンザ同盟都市ではわざと道路を凸凹にして、荷崩れが起きやすいようにしていたといいます。

Q:コミューン運動は商人全員で行ったんですか。また、どんなことをしたんですか。

A:有力な商人が何人か集まって始めたものです。解放金を支払うことを条件に自治権を認めさせるなどの交渉を行いました。自治権獲得後は都市の共同体を作り、守ることに力を注ぎます。

Q:昔、香水は薬として使われたというが、本当か。

A:香水というより香辛料でしょう。中世、解毒剤として用いられました。

Q:ギルドに入るには加入料がいるのか。

A:はい、入会金がいりました。入会後も様々の寄付が義務づけられていました。

Q:徒弟から職人になるのも何か試験があったのか。

A:試験はありません。2〜10年間ただ働きをして、やっと職人になれました。

Q:中世のヨーロッパにも有名な刀とか剣とかがあったのですか。

A:はい。各地に剣の産地が出現し、すぐれた物を生み出しています。ドイツのパッサウ、ニュルンベルク、アウグスブルク、ゾーリンゲン、イタリアのミラノ、スペインのトレドが有名でした。

Q:当時の食べ物の中で、何が一番豪華だったのか。

A:肉類では豚の丸焼き、魚はキングサーモン、果物はレモンとオレンジ。そして最高のもてなしは、香辛料をふんだんに使うことでした。

一般によく食べられた魚はニシンとウナギでした。

Q:このころの気候はどうだったのか。

A:1033年頃に長雨、1314年には寒さと大雨に見舞われています。この時期は小氷河期と呼ばれ、農業生産が衰え、ペストが大流行するなど、社会全体が危機を迎えていました。

 

V.ヨーロッパ封建社会の崩壊

1.封建制の崩壊

Q:フランスのジャックリーの乱の中心人物は誰か。

A:ギョーム・カイエといい、貴族的な雰囲気を持った美男子でした。

Q:都市へ逃げ込む農民が増えて、領主は困らなかったのか。また逃げ込んだ農民が生活に困ることはなかったのか。

A:確かに領主は困りました。そこで都市との間で話し合いが行われ、《都市へ逃げ込んで1年たてば、農奴はその身分から解放される》というルールができたのです。逆にいえば、1年未満で見つかった農民は荘園へ連れ戻されることになります。都市の側も最初は労働力が増えるので歓迎したのですが、当時の都市の面積は狭かったため、上のようなルールが作られることになりました。

2.法王権の衰退

Q:フランスで三部会が開かれた時、聖職者たちはローマ法王と対立することに反対しなかったのですか。

A:王権が強化され、国家意識がしだいに生まれ始めた結果、聖職者も自国の利益を優先して考えるようになります。

Q:フランスのフィリップ4世は、法王庁をなぜアヴィニョンに移したのか。

A:たまたまここが法王領だったからだそうです。

Q:フィリップ4世の「4」という数字はどこからきているのか。

A:フランスでフィリップという名前の王が何人かいる場合の4番目の人、という意味です。

Q:フス戦争の指導者は誰か。

A:チシュカという人です。

Q:コンスタンツ宗教会議にはどんな人たちが参加したのですか。

A:聖職者並びに神学者でした。

3.中世のヨーロッパ諸国

Q:フランスはなぜフランスというのか。

A:フランス王国は987年に成立したカペー朝に始まります。その最初の王ユーグ・カペーは「レックス・フランコルム(フランク人の王)」と名乗っていますから、フランクから来たものと推測されます。

Q:1300年頃のフランスの人口はどれくらいか。

A:約1200万人です。

Q:デーン人の侵入がイングランドにもたらしたものは何ですか。

A:1)イングランドの統一を促進した。2)商工業が発達した。3)中世都市が成立するきっかけとなった。などです。

Q:英語にも日本の古文に当たるようなものがあったのですか。

A:はい。以下実例をいくつかあげます。

   you→thy have→habben one→an 

   what→hwаеt mother→modor 

Q:プランタジネット朝を開いたアンジュー伯は、どうしてそんな広い領土を持っていたのですか。

A:元々領土が広かったのに加え、アキテーヌ公の娘と結婚したため、いわばその持参金としてさらに広い領土を相続することができました。

Q:ジョン王とローマ法王のケンカとはどのようなものだったのですか。

A:イギリスのカンタベリー司教の選任をめぐる争いでした。その結果、ジョンは法王によって王位を奪われてしまいます。そこでジョンは法王に謝罪し、いったんイングランド全土を献上し、法王から改めて王位と領土を授けてもらうというぶざまな結果になりました。

Q:大憲章(マグナ・カルタ)は何ヶ条からできているのか。

A:63ヶ条です。

Q:シモン・ド・モンフォールはどんなことを要求したのか。

A:大憲章(マグナ・カルタ)を守れ、というようなことですね。

Q:模範議会とはどういう議会だったのか。何人くらいの人が集まったのか。

A:大司教、司教、修道院長、聖職者、大貴族に加え、各州より2人の騎士、各都市より2人の市民といったメンバー構成されており、当時のイギリス社会を忠実に反映するものとして、このように名づけられました。ただし、全体の人数はわかりません。

Q:ペストというのはどんな病気ですか。

A:悪寒・ふるえとともに突然高熱を出し、死亡します。皮膚が黒くなるので黒死病とも呼ばれます。

Q:百年戦争中に両国の王は何人代わったのか。

A:各五人ずつです。

Q:百年戦争で、戦った期間と休戦の期間はそれぞれどれくらいですか。

A:戦った期間は、おおむね次のようになります。

1339年〜1340年  1341年〜1342年  1345年〜1347年

1355年〜1360年  1369年〜1375年  1413年〜1453年

従って 戦争・・・56年  休戦・・・58年 となります。

Q:イギリス軍の長弓の射程距離は400メートルだったというけど、余り遠くからではねらいをつけにくいのではないですか。

A:駅伝などで前の選手が見えるぎりぎりの距離は300メートルだそうです。ただし、当時の人々は今よりもずっと目が良かったと思われますから、400メートルでも十分見えたのではないでしょうか。

Q:アルマニャック派とブルゴーニュ派の語源は何ですか。

A:いずれも中心となった封建諸侯の名前からきています。

Q:なぜブルゴーニュ派はイギリスを支持したのですか。

A:アルマニャック派を倒し、自分たちがフランスの主導権を握るためです。

Q:ドイツの地名にはブルクとかベルクとかいうのをよく見るけど、どういう意味ですか。

A:町という意味です。ブルクに住む市民をフランスではブルジョアといいます。

Q:オットー大帝はどういう人ですか。

A:ドイツ王国初代国王ハインリヒ1世の長男です。国内を統一すると共にマジャール人の侵入を退け、その功績を認められて皇帝の位に登りました。最初の妃はイングランドの王女、二度目の妃はロンバルディアを支配していたアーデルハイトという人でした。長男は東ローマ皇帝の娘と結婚しています。

Q:神聖ローマ帝国は、なぜ神聖というのですか。

A:教会と結びついたことから来ています。ただし正式にこの名前になるのは15世紀のことでした。

Q:大空位時代、なぜ皇帝のなり手がなかったのか。

A:なり手がない、という言い方は間違いでした。国内が二派に分かれ、それぞれのグループがイギリスとカスティラから皇帝を連れてきました。しかし二人ともドイツ語がしゃべれず、ドイツには何の興味も関心も示さなかったので(一人はドイツに一度来ただけ、もう一人は一度も来なかったそうです)、実質的には皇帝がいなかった時代、と考えられました。ただその背景には、やる気のある皇帝が出てきて皇帝権を強化し、中央集権化を進められてはかなわない、という諸侯たちの判断があったと思われます。この大空位時代はハプスブルクの即位によって終わりますが、彼が指名されたのは皇帝権を強化しない弱い人間と考えられたからでした。

Q:金印勅書の金印というのはどういう意味ですか。

A:勅書には必ず皇帝のはんこを押しますが、この文書は重要なので、特に黄金のはんこを用いたためです。

Q:法王派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)は何が原因で分裂したのか。

A:神聖ローマ帝国の帝位をザクセン公ヴェルフ6世とシュヴァーベン公コンラート3世が争い、シュヴァーベンが勝ったのですが、この時、シュヴァーベンに反対する人々が法王と手を組んだことに始まります。

Q:ゲルフ、ギベリンというのはイタリア語ですか。

A:英語です。

Q:デンマーク・ノルウェー・スウェーデンがカルマル同盟を結んだ時、各国は何か条件を出して同盟を結んだのか。

A:この同盟の主役はデンマークの女王マルグレーテです。彼女はデンマークの王女として生まれ、ノルウェー王と結婚しました。しかし、父・夫・息子がすべて死んでしまったため、デンマーク・ノルウェー両国の王となりました。更にスウェーデン王を破ってこれを捕虜にし、カルマル同盟を結ばせました。従ってデンマークがノルウェー・スウェーデンを支配した形です。

4.中世ヨーロッパの文化

Q:ノートルダム大聖堂はどうしてパリにもポアティエにもあるのですか。

A:ノートルダムは聖母マリアという意味です。各地にある聖母マリアをまつる聖堂の内、パリにある物が一番有名だということですね。

Q:中世ヨーロッパで、大学に入るための試験などはあったのですか。

A:教授は試験を受けて資格をとり、教授のギルドに加入する必要がありました。このことから類推して、何らかの資格審査があったのではないかと思われます。

Q:グレゴリオ聖歌は、最初男性だけが歌っていたようですが、女性はいつから歌うようになったのですか。

A:現在知られている最初の女性作曲家ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(ドイツ、1098〜1179)が修道女たちのために数多くの賛美歌を作っています。