Home 教育実践 前川の世界史古代文明

古代文明

T.文明の始まり

Q:古代・中世・近代というが、どこで分けるのか。

A:西洋の場合、ゲルマン民族の侵入で西ローマが滅びるまでが古代、そこから中世が始まります。ルネサンス・大航海時代・宗教改革以降が近世、市民革命以降が近代です。アジアの場合は色々な説があります。

Q:ノアの箱船というのは本当にあったのか。そうだとすれば、大洪水も本当の話なのか。

A:洪水があったことは事実です。氷河期の終わりに、世界的な規模の大洪水が起こっています。ノアの箱船は伝説だと思いますが・・・。それがたどり着いたというアララト山には、山腹に土が船の形に盛り上がった場所があり、それこそが箱船の遺跡だという説もあります。民放の某番組によれば、トルコ政府はその一帯の発掘を禁止しているので、いよいよ怪しいというのですが・・・。

1.人類の出現

Q:アウストラロピテクスという名前は、誰がどうやってつけたのですか。

A:発見者ダートが「南の猿」という意味で名づけました。ところがアウストラロ(南の)はラテン語、ピテクス(猿)はギリシア語だったので、専門の学者たちからは馬鹿にされたといいます。

Q:一番最初に誕生した猿人は男性ですか、女性ですか。

A:わかりません。現在見つかっている最も完全な最古の人類の化石は女性のものです。発掘された時、現場にはちょうど、ビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」が流れていたため、ルーシーと名づけられています。

Q:大昔の人々は肉を生で食べていたそうだが、それで死んだりはしなかったのか。

A:生物の浜中先生に聞きました。多少は今より抵抗力があったと考えられるものの、細菌がいるなどのリスクも大きく、だから平均寿命がずっと短かったのだ、とのことでした。

Q:猿人には虫歯がありますか。

A:ありません。人類が虫歯になるのは、火を使って食物を調理するようになってからです。つまり、原人以降のことになります。

Q:磨製石器は何を使ってあんなにピカピカに磨いたのか。

A:砥石です。

Q:船を使って移動するという習慣はいつごろから始まったのか。

A:中石器時代からです。

Q:歴史上初めてペットとして人に飼われた動物は何か。

A:ペットは分かりませんが、最初の家畜は犬でした。中石器時代の事です。猫にネズミを取らせる事は古代メソポタミア時代から知られていました。

2.農耕と牧畜の発明

U.古代オリエント文明

Q:オリエントが東、オクシデントが西、では南と北は何というのですか。

A:南はアウストラリス、北はボレアリスです。

1.エジプト

Q:ピラミッド時代に作られたピラミッドの数は大小合わせてどれくらいか。

A:現在残っているのは、約60です。

Q:ピラミッドというのはどういう意味か。

A:ピラミッドはギリシア語で、エジプトでは「メル」といいます。ギリシアにピュラミスという小麦粉とハチミツを用いた焼き菓子があり、その形に似ていたところから名付けられました。

Q:ピラミッドは何のために作られたのですか。

A:様々の説があります。近年注目されている説に、平地が洪水におおわれ、農作業ができない時期に人々に仕事を与えるための公共事業だった、というのがあります。

Q:スフィンクスの顔は何をモデルにしているのか。

A:ギゼーの大スフィンクスはわかりませんが、王の顔をかたどったものもあるようです。

Q:今スフィンクスは何個残っているのか。

A:王の墓の入り口には必ず置いてあります。1カ所に40以上並んでいる例もあるとのことです。ただし、有名なギゼーのものはとびきりの大型です。ちなみにスフィンクスはエジプトの専売特許ではなく、バビロニア、アッシリア、ヒッタイト、シリア、ペルシア、ギそれにリシアでも見つかっています。

Q:ツタンカーメンの黄金のマスクは何金製か。また、あごの長いのは何を表しているのか。

A:純金製です。長いのは神を象徴するあごひげです。

Q:ツタンカーメンの呪いというのは本当か。

A:もちろん学者は否定しています。ミイラを包む布に着いていた細菌、あるいは墓室の壁に生えていたかびが原因だという説もあります。

Q:世界最初の戦いは、いつ、どこで行われたのか。

A:戦いの経過が具体的にわかる最古の記録は、エジプト新王国の ラムセス2世とヒッタイトの間で行われたカデシュの戦いです。紀元前1286年のことでした。両者とも勝ったと主張しており、引き分けと考えられています。

Q:ヒクソスというのはどこの民族ですか。

A:エジプト語で「外国人の支配者」という意味です。フリ人が主体と考えられています。インド・ヨーロッパ系でもセム系でもないそうです。

Q:この頃の平均寿命はどれくらいですか。

A:統計がないので正確なことは分かりません。1998年、プトレマイオス朝エジプト末期(約2100年前)の庶民のものと考えられるミイラが60体発見されました。その調査によれば、平均寿命は38歳だったそうです。

Q:ミイラ作りは値段によって等級があったそうだが、何等級くらいあったのか。

A:3等級程度と推測されます。

Q:エジプトの象形文字は全部で何字あるんですか。

A:ヒエログリフは約700ありました。

Q:エジプトの象形文字はパピルスに書かれていたそうですが、何で書かれていたのですか。

A:葦の茎を切って作ったペンでインクを使って書かれていました。

Q:エジプトの象形文字解読のきっかけになったロゼッタ・ストーンには、どんなことが書いてあったのか。

A:メンフィスに集まった神官たちの総会での決議文です。国王プトレマイオス5世の業績をたたえ、それに感謝するために王に神の称号を贈り、彫像を作り、誕生日と戴冠記念日には毎年祭典を行う、などの内容です。

2.メソポタミア

Q:奴隷を使いだしたのはいつ、どこでか。

A:シュメール都市国家ですでに使われています。

Q:奴隷は一体どこから連れてこられたのですか。

A:主な供給源は戦争の捕虜と異民族です。

Q:楔形文字にも、日本語の「、」や「。」、英語のコンマにあたるようなものがあるのですか。

A:文字の区切りを示す点はあるようですね。

Q:メソポタミアの人々がやっていたことで、今では考えられないような習慣があれば教えて下さい。

A:日食・月食の時には、王以外の人間を身代わりの王として立てる習慣がありました。一定の期間がすぎると王がもどってきて、身代わりの王は殺されたそうです。

3.その他の国々

Q:インド・ヨーロッパ語族の原住地は、どうして南ロシアと考えられているのですか。

A:一つは移動ルートを逆算して、もう一つは最も古い単語に含まれる動植物の分析に基づきます。

Q:ヒッタイトには国王のような存在はなかったのですか。

A:王国ですから、もちろん国王がいます。厳密にいえば古王国と新王国に分かれます。古王国をたてたハットゥシリ1世(1650〜1620BC)、新王国をたてたシュピルリウマ1世(1345〜1320BCごろ)が知られています。シュピルリウマ1世は、バビロン第一王朝(古バビロニア王国)を滅ぼしたことで有名です。なお、新王国をたてた民族は古王国とは別の系統で、フリ人の血が濃いと考えられています。

Q:鉄器は初めどうやって作られていたのか。

A:最初に人類が鉄に注目したのは、隕石中の鉄でした。天から降ってきた強い金属というところに神秘的な力を見いだしたと考えられています。鉄鉱石と木炭などの燃料を混ぜ合わせ、これを加熱し続けると、鉄の成分だけが熔け出してきます。こうして作られた鉄に様々な加工を加えるわけです。

Q:ヒッタイトの象形文字は解読されていないのに、なぜ楔形文字は解読できたのか。

A:楔形文字は古代オリエントで広く使われています。他の文明のものがすでに解読されているので、その研究の成果を応用することができたためです。

Q:海の民はどうやってヒッタイトを滅ぼしたのですか。

A:海の民というのは、ルカ人、シェルデン(後のサルデーニャ)人、ペリシテ人、アカイワシャ(後のアカイア)人、トゥルシア(後のエトルリア)人、シェクレシュ(後のシチリア)人、チェケル人など、地中海沿岸に住む様々な民族の総称です。彼らが同盟を結び、一斉に攻撃を仕掛けました。

Q:海の民は鉄器を使っていたのか。

A:ヒッタイト滅亡後、鉄の製法が各地に伝わったそうですから、海の民は持っていなかったと見るべきでしょう。この後しばらくの間、海の民の一派・ペリシテ人が、鉄器を独占的に製造することになります。

Q:フェニキアは地中海各地に植民地を作った、とあるけど、その地域にすむ人たちとの関係はどのような物だったのですか。

A:原住民と戦い、彼らを征服する形で植民地が作られました。彼らを奴隷化する場合もあったと考えられます。

Q:フェニキアの地中海貿易では、何をやりとりしていたのですか。

A:フェニキアの特産物としては、染料・織物・レバノン杉があります。その他、バルト海沿岸のコハク、イギリスの錫(すず)、スペインの銀、南アラビアの金、インドの香料などがありました。

Q:ヘブライ王国が分裂した理由は何ですか。

A:ソロモン王の重税や強制労働に民衆が反発し、北方の部族がイスラエル王国を作って独立しました。

Q:ユダヤ教は今も残っているのですか。信者はどれくらいですか。

A:もちろん、今も信仰されています。信者数は約2000万人です。ちなみに日本のユダヤ人口は約1000人です。

Q:バビロン捕囚はなぜ行われたのか。

A:ユダ(ヤ)が新バビロニアに激しく抵抗したため、見せしめとして行われました。もっとも、バビロンではけっこう自由な生活を許されていました。

Q:地図帳に「嘆きの壁」の写真が載っているが、どうしてこのような名前がついたのか。

A:元々ここにはイェルサレムの神殿があったのですが、その壁だけが残ったものです。自分たちの祖国が滅んでしまったとを嘆いているのです。

Q:どうして昔の地名は最後に「〜〜〜ア」がつくのが多いのですか。

A:〜〜〜iaはラテン語で「〜〜〜の土地」を意味します。

4.オリエントの統一

Q:初めての貨幣は何で作られていたのか。またどのような加工がしてあったのか。

A:金と銀の天然の合金・エレクトロンにライオンの頭を刻んだ楕円形の物でした。

Q:ゾロアスターというのはどんな人ですか。

A:紀元前7〜6世紀の人で、20歳で出家し、30歳になった時、新春の清めの水を汲みに行った河で神のお告げを聞きました。反対派に追放されますが、42歳でバクトリア地方の長官を改宗させ、その保護を受けました。反対派との戦いを続け、77歳で死んでいます。反対派に暗殺されたためでした。

Q:ペルシアの王道はサルデスからスサまで続いているが、この二つの町には何か特別な意味があったのか。

A:スサはペルシアの政府所在地、サルデスはかってのリディアの首都で、経済的に重要な町でした。

Q:王の目、王の耳と呼ばれる監督官はどういう身分の人だったのですか。

A:自分の兵士を持ち、常に国内を巡回していた、とありますから、当然貴族出身で、地位もかなり高かったと考えるべきでしょう。

5.古代オリエントの特徴

Q:この時代の人々はどんな物を食べていたのか。

A:主食は小麦・大麦から作ったパンです。

   野菜はソラマメ、エンドウ、ダイコン、キュウリ、レタス、ハスの実、タマネギ、ニンニク、ニラ。

果物はナツメヤシ、イチジク、ザクロ、ブドウ、リンゴ、ナシ、スイカ。

魚、水鳥の肉(ガチョウ、カモなど)。少し遅れて牛肉も食べるようになります。

 

V.地中海世界 その1 ギリシア

Q:古代世界の七不思議とは何ですか。

A:エジプトのピラミッド、ハリカルナッソスのマウソロスの墓、エフェソスのアルテミス神殿、バビロンの空中庭園、ロードス島のコロッソス、オリンピアのゼウス像、アレクサンドリアのファロス灯台です。

1.エーゲ文明

Q:シュリーマンはなぜ、トロイの遺跡の場所がわかったのか。

A:彼は、それまで単なる物語であると思われていたホメロスの叙事詩『イリアス』を事実であると信じ、その記述と一致する場所を探し続けました。その結果、発掘に成功したのです。しかし彼が発掘したのは、トロイと同じ場所にあったずっと古い都市の遺跡でした。

Q:クレタ文明は海上貿易で栄えていたらしいが、どのような物を取り扱っていたのか。

A:土器、織物、金属細工、武器、宝石などでした。

2.ポリスの成立

3.アテネ

Q:アレオパゴス会議とはどういうものか。

A:アレスの丘に会議場があったので、こう呼ばれました。殺人、放火に対する裁判や役人の不正を取り締まりました。

Q:アテネの守護神はどんな形をしていたのか。

A:アテナという女神です。普通、カブトをかぶり、ヤリを持った正義の守護神として描かれています。ただし、パルテノン神殿のアテナ像はかなり違った姿をしていたようです。

Q:パルテノン神殿のパルテノンというのは何ですか。

A:乙女の部屋という意味です。元々は神殿西側にある部屋の名前でした。

Q:主にどのような商工業が発達したのですか。

A:陶器・織物・金属細工・ワイン・オリーブ油などです。

4.スパルタ

Q:スパルタは鎖国だったそうだが、商工業者はどうやって生活していたのか。

A:市民が商工業を営むのは禁止され、ペリオイコイのみに認められていました。貨幣も禁止され、市民は余った農作物と品物を交換していました。

5.ペルシア戦争

Q:イオニアの反乱の中心人物は誰か。

A:ミレトスという町が中心です。リーダーはヒスティアイオスといいました。

Q:このころの兵士は何歳から何歳くらいまでだったのか。

A:はっきりしませんが、ソクラテスの例から考えて、18歳から60歳というところではないでしょうか。

Q:マラソンの距離の元になったロンドン・オリンピックのマラソン優勝者は誰か。

A:アメリカのヘイズという選手です。ちなみに記録は2時間55分18秒4でした。

Q:ペルシア戦争で、ペルシア軍とアテネ軍はそれぞれ何人くらいが参加していたのか。

A:マラトンの戦いは、ペルシア・・・2万、 アテネ・・・1万   

プラタイアの戦いは、ペルシア・・・4〜5万、 ギリシア・・・3万です。

Q:ペルシア戦争の終わった年には二つの説があるということだが、どういう意味か。

A:事実上戦いが終わったのがBC479年、正式に和約が結ばれたのがBC449年です。

6.アテネの黄金時代

7.ギリシアの民主政

Q:民会に出席すると手当が出たそうだが、それはいくらくらいか。

A:1ドラクマでした。これは当時、家族1日分の食費に相当しました。

Q:評議会はどんな仕事をしていたのか。

A:たとえば民会の準備・提出議案の作成などがあります。

Q:ギリシアではなぜ女性の地位が低いのですか。

A:ポリスには戦士共同体という側面がありました。つまり武器をとってポリスのために戦う人間のみが政治に参加する権利を持ちます。従って女性は除外されることになります。

Q:このころの奴隷はどこの国の人で、値段はいくらくらいだったのか。

A:地中海沿岸に住む様々な民族です。値段は1人5〜6ムナでした。今の貨幣価値に換算すると50〜60万円くらいでしょう。

Q:奴隷をレンタルできる場所があったということですが、どれくらいの期間、どれくらいの値段でレンタルできたのですか。

A:1人1日1オボロスのレンタル料ということしかわかりません。今の貨幣価値なら約800円というところでしょう。

8.ギリシアの没落

Q:ペロポネソス戦争で勝ったスパルタの指導者は誰か。

A:前半は国王アルキダモス、後半はリュサンドロスくらいでしょうか。

Q:ペロポネソス戦争の死者はどれくらいか。

A:統計がないのでわかりません。シチリア遠征(byアルキビアデース)の失敗により捕虜になったアテネ軍は7000人だったとありますが・・・。

9.ギリシア文化

Q:アテネのパルテノン神殿は、きれいな色に塗られていたと聞いたことがあるけど、昔の人はどうやって色を作っていたのですか。

A:岩、植物、動物(たとえば貝やイカ墨)などから作っていました。イカ墨から作った色はセピア色と呼ばれました。またフェニキア産の貝からはきれいな紫色が作られました。

Q:古代オリンピックは何種目あったのか。

A:短距離、中距離、長距離、五種競技、レスリング、ボクシング、戦車競争(7種類あり)、競馬(2種類あり)、武装競争、ラッパ吹き競争、伝令競争、音楽、悲劇など26種目ありました。ただし、このすべてが一大会で行われたのでなく、一回の最大種目数は13でした。

Q:オリンピックの観衆は今のように多かったんですか。

A:ギリシア内外から数万人が集まったということですが・・・。

Q:オリンピックはどうして中止されたのか。

A:一つはしだいに見せ物化し堕落したこと、もう一つはキリスト教以外の神に対する行事は許されない、ということからです。

Q:ギリシア神話の冥界の王ハーデスは何をしたのか。

A:暗黒の体を持つ猛々しい神だということですが・・・。

Q:ギリシア神話の争いの女神エリスは何をしたのですか。

A:軍神アレスの妹です。醜いじゃじゃ馬で、不和をもたらします。

Q:ギリシア人は異民族のことをどうしてバルバロイと呼んだのですか。

A:訳のわからない言葉を話す人間、という意味です。

Q:ギリシア時代の食べ物はどんなものだったのですか。

A:主食はパンと果物(オレンジ、オリーブなど)、そしてワインです。肉は羊、山羊、鶏、魚はイワシが多かったそうです。

Q:ギリシア神話の中で、実際にあった話はないんですか。

A:テーセウスは集住によってアテネを作った人といわれています。イアソンのコルキス遠征物語は、ギリシア人の植民活動の反映と考えられます。

Q:なんでギリシアの人たちは、名前の最後に「ス」がつくんですか。

A:やはり世界史の教師をしている知人が生徒から質問を受け、ギリシア大使館に問い合わせたそうです。返ってきた答は、「文法上の理由による」というものでした。

10.ヘレニズム時代

Q:マケドニアのフィリポス2世はどういう人だったのですか。

A:よくいえば情熱的な親分タイプ、悪くいえばカンシャク持ちで残酷な人でした。

Q:カイロネイアの戦いはどれくらいの規模だったのか。

A:アテネの死者が1000人ということしか分かりません。

Q:マケドニアがコリント同盟を結成した時、どうしてスパルタだけは加えなかったのか。

A:スパルタはマケドニアの支配を認めず、抵抗を続けたからです。従ってマケドニアが加えなかったのではなく、スパルタが参加しなかったというべきです。

Q:アレクサンドロスの東征の時、勝利をおさめるため戦闘体形などに何か工夫があったのか。

A:戦略面では直接攻撃を避け敵の側面から攻めた、戦術面では騎兵をうまく使ったというところでしょうか。

Q:アレクサンドロス大王はインドへ侵入する時、希望する者だけついて来いといったけど、どれくらいの部下がついて行ったのですか。

A:後から来た応援部隊を含め、5万5000人です。

 

W.地中海世界 その2 ローマ

1.共和政ローマの発展

Q:初期のローマの面積と人口はどれくらいか。

A:面積は約130平方キロメートル、人口は4〜5万程度と推測されます。

Q:元老院のメンバーはどのようにして決めるのですか。

A:高級官僚経験者で構成されます。最初は国王、のちコンスル、のちケンソルが選びました。

Q:元老院に入れるのは何歳からですか。

A:当初は60歳以上でしたが、のち年齢制限はなくなりました。

Q:「十二表法」はどんな内容だったのか。

A:次のような恐ろしい条文があることがわかりました。

  《家長(注・父親のこと)は子供を監禁し、鞭打ち、売り、殺すことができる》

Q:前2世紀以降、オリーブ・ブドウなどの商品作物を栽培したらしいが、他にはどんな物があったのか。

A:麦・豆・蜂蜜・羊などがありました。

Q:ポエニ戦争のポエニとは何のことか。

A:ラテン語でフェニキアという意味です。

Q:シチリア島は、なぜシチリアというのか。

A:シクリ族が住んでいたためです。

Q:ポエニ戦争でローマとカルタゴを指揮していた人は誰ですか。

A:第1回はローマがレグルス、カルタゴがハミルカル・バルカスでしょうか。

第2回はローマが大スキピオとファビウス・マクシムス、カルタゴがハンニバル(バルカスの子)。

第3回はローマが小スキピオ、カルタゴは特に聞きません。

Q:カルタゴは地中海貿易でどんな物を輸出し、輸入していたのか。

A:輸入品は分かりません。輸出品は北アフリカと南スペインの銀、オリーブ・ナツメヤシ、それに象牙・黄金でした。

Q:第1回ポエニ戦争でローマが使った軍艦はどのくらいの大きさで、何人乗りだったのか。

A:ギリシアの三段櫂船に対し五段櫂船だったそうですから、かなり大きかったと思われますが、何人乗りかまではわかりません。

Q:カルタゴがあったチュニジアは、どんな料理がありますか。特産物は何ですか。

A:主食は小麦でしょう。米も食べるようです。名物料理としては、ブリック(三角春巻き:ツナ、ジャガイモ、パセリ、ケッパー、タマゴなどが入っている)、焼き野菜サラダ、イカメシなどがあります。特産物は石油とオリーブオイルでしょう。

Q:当時戦争に行く人の年齢制限などはあったのですか。

A:ローマは16歳以上です。上限は60歳くらいでしょうか。

Q:ハンニバルはローマまで行くのに何日かかったのか。

A:約5カ月です。うち、アルプス越えは15日かかっています。

Q:ザマの戦いで、ヌミディア人はなぜハンニバルを裏切ったのか。

A:ヌミディア内部の対立をローマがうまく利用した結果です。

Q:第2回ポエニ戦争で、カルタゴが払った賠償金はどれくらいか。

A:1万タラントンです。

Q:ハンニバルはその後どうなったのか。

A:ローマに対する報復戦をひそかに準備していましたが、密告されたため国外に亡命し、各地を放浪した末に自殺しました。67歳でした。

Q:スキピオのその後はどうだったか。

A:コンスルに選ばれるなど活躍しましたが、その名声を妬んだ元老院の攻撃を受けて引退し、失意のうちに死にました。

Q:奴隷はなぜ逃げなかったのか。

A:逃げた例はあります。スパルタクスの乱がそうです。一部を除き、比較的待遇がよかった事、金をためればその金で自由になる可能性がある事などから、逃亡者が少なかったのでしょう。

Q:植民地と属州の違いは何ですか。

A:古代においては、植民地は本国から独立した対等の存在であるのに対し、属州は本国の支配に従属し、税をおさめるという違いがあります。近代以降の植民地と属州はかなり似ていると思われます。

2.内乱の時代

Q:カエサルのガリア遠征の時、兵士は何人くらいいたのか。

A:最終的には9個軍団、約5万4000人だったそうです。

Q:カエサルの奥さんについて教えて下さい。名前とか、年齢とか。

A:カエサル17歳の時、キンナの娘・コルネリアと結婚。

32歳の時、スラの孫娘・ポンペイア 〃

41歳の時、ピソの娘・カルプルニア 〃

54歳の時、クレオパトラ(21歳) 〃

相手の年齢はクレオパトラ以外は不明ですが、17〜18歳くらいと想像されます。

Q:クレオパトラはどういう人柄だったか。

A:とびきりの美人ではなかったようですが、化粧がうまく、頭の良い野心家でした。特に声が魅力的だったといわれています。彼女に関しては、次のような記述があります。

《クレオパトラの美しさもそれだけでは一向に比較を絶するものではなく、見る人を驚嘆させるほどのものではなかったが、この女性と付き合ったらとても離れられぬという魅力があり、その姿はまぶしいばかりで、会話の説得力とその雰囲気がかもし出す迫力とを兼ね備え、一座の人々の心を針のように打った》

Q:クレオパトラは数ヶ国語がしゃべれたというが、どんな言葉だったのか。

A:ラテン語、ギリシア語、エジプト語、エチオピア語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、メディア語、パルティア語です。

Q:クレオパトラは何回結婚したのか。

A:3回です。8歳年下の弟、カエサル、アントニウスです。

Q:カエサルとクレオパトラの間に生まれたカエサリオンは、カエサルの子供ではないのですか。また、その後どうなったのですか。

A:カエサルの子供です。ただ、彼の子供は他にはいないので、当時から疑問視する声がありました。その後、エジプト国王プトレマイオス15世となります(47〜30BC)。しかし、エジプト滅亡とともに殺されました。

Q:有名なクレオパトラは何世ですか。全部で何世まであるんですか。

A:7世です。全体でも7世が最後です。

Q:第2回三頭政治に加わったレピドゥスは、どんな人ですか。

A:カエサルの部下だった武将です。オクタヴィアヌスとアントニウスの仲介役をはたしました。名門貴族の出身ですが決断力に欠け、オクタヴィアヌスに抑えられて引退に追い込まれました。

3.ローマ帝国

Q:アウグストゥスの妻はどんなふうに悪い人だったのですか。

A:2番目の妻は恐ろしく嫉妬深く、気に入らないことがあるとわめきちらしました。3番目は申し分のない女性でしたが、子供に恵まれませんでした。

Q:ローマは平時に兵士たちをどのように組織していたのか。

A:基本的には常備軍です。皇帝直属軍と辺境防衛軍に分かれます。

Q:アッピア街道はどれくらいの長さがあったのか。

A:540キロです。

Q:コロセウムで戦った猛獣にはどんな物がいたのか。

A:ライオン、トラ、ヒョウ、野牛、カバ、ゾウなどがいました。

Q:パンとサーカスは無料だったということだが、そのお金はどこから出ていたのか。

A:もちろん税金です。ローマ市民は相続税を負担していました。すべての自由人にローマ市民権を認めるというアントニヌス勅令の結果、この相続税は全ローマ領内に拡大されることになりました。

Q:この時代、競馬のようなギャンブルはあったのか。

A:競馬はありません。当時の人々が最も熱中したのは戦車競走でした。やはり賭けていたようですね。

Q:ローマ帝国ではどのような貨幣が使われていたのか。

A:主に次の5種類と考えられます。

アエス・グラヴェ・・大型銅貨

デナリウス・・・・・銀貨

セステルティウス・・1/4デナリウスの銀貨

アス・・・・・・・・銅貨

アウレウス・・・・・金貨

Q:ローマの人々は何かの動物をペットとして飼ったりしていたのですか。

A:多く飼われていたのは犬と鳩だったようですが、犬は番犬及び秘密の手紙の伝達用(手紙を呑み込ませ、受取人が腹を裂いて取り出した)鳩は通信用及び食用で、ペットとはいえませんね。

Q:ローマの貴族たちはどんな料理を食べていたのですか。

A:食べ物の組み合わせに関しては、ローマ時代にすべて出尽くしているといわれています。肉は必ず煮てから焼く、調味料としては魚の内臓から作ったショウユを使う、などの特徴がありました。また最初はタマゴ料理で始まり、最後はリンゴで終わる、というのがフルコースの決まりでした。ローマ人はウナギのカバ焼きを好み、新鮮な魚を提供するための生け簀も作られていました。ワインは水でうすめて飲むのが習慣でした。当時の保存方法では密閉できず、長期間の内に蒸発して濃縮されるためでした。夏は雪割り、冬はお湯割りにしました。また、料理に関する特許制度があり、1年間他の人間はそれを作ることができない決まりでした。

 最後に、カエサルの参加した晩餐会のメニューを紹介しておきます。

前菜:ウニ、生カキ、トリガイ、ツグミのアスパラぞえ、メンドリ、カキとトリガイの煮込み、黒イワカキと白イワカキ、イソギンチャク、山羊と猪のフィレ肉、家禽の小麦粉包み、ホネガイ、ワイン。

主菜:メスブタの乳房、猪の頭、魚料理、アヒル・小鴨の煮物、ウサギ・家禽のあぶり肉。

デザート:小麦のクリーム、ビスケット。

Q:ローマ帝国時代の人々はヒゲが伸びたらどうしていたのですか。カミソリだったのですか。

A:当初はハサミで切っていたようですが、紀元前299年にカミソリがもたらされ、ヒゲをそる習慣ができました。最初にヒゲを全部そったのはスキピオ、その習慣を確立したのはカエサルでした。その後、五賢帝の一人ハドリアヌスがはやしたため、今度はそれが習慣として広まりました。

Q:ローマ帝国時代の防寒衣はどんなものだったのですか。

A:クラミスあるいはラセルナと呼ばれる正方形または長方形の布を肩にとめたり、両端を結んで着用していました。

Q:ローマ帝国時代の人々の服装は、布でできたスカートやそれが短くなったようなものばかりですが、ズボンはいつごろからはき始めたのですか。

A:もともと遊牧民族がはいていました。東ローマにペルシアの習慣が伝わり、中世になってヨーロッパに普及しました。

Q:ディオクレティアヌスはどういう人だったか。

A:真面目で穏やかな性格と軍人らしい豪快さを合わせて持っていました。

Q:なぜ職業・身分を固定する必要があったのですか。

A:様々の物資、特に食糧を確保するために行われました。国営工場の労働者は逃げ出してもすぐわかるように、焼き印をおされていました。

Q:コンスタンティヌスはどういう人だったか。

A:真面目で粘り強い反面、部下をからかうのが好きでした。晩年は浪費的でだらしない生活を送りました。

4.ローマ帝国の没落

Q:西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人オドアケルはどこの国の人ですか。

A:ドナウ川中流に住むスキリ族の出身です。それは疑わしいという説もあるようですが・・・。

Q:西ローマ帝国はすぐ滅んだのに、東ローマ帝国はどうしてすぐには滅びなかったのですか。

A:ゲルマン人の侵入が、たまたま西ローマに集中したためです。

5.ローマ文化

6.キリスト教

Q:『聖書』はいつごろできたものですか、書いたのは誰ですか。

A:『旧約聖書』は紀元前100年頃にはすでにありました。その中の一番古い部分は紀元前1000年頃にできていると考えられています。ユダヤ民族の伝承などを集め整理したもので、特定の個人の作品ではありません。

Q:『聖書』から除外されている外典とはどんなものですか。まだどんなことが書かれているのですか。

A:内容はいろいろで、一概にいえません。AD90年、ユダヤ人宗教指導者たちの開いたヤブナ会議で、『旧約聖書』の内容が確定されました。しかしギリシア語のセプトゥアギンタ訳『聖書』(イエスもこれを使っていた!)には外典も含まれていました。宗教改革後、プロテスタントはもとのヘブライ語聖書にないのだから、偽物だと考えて外典を『聖書』からはずしました。カトリックはイエスが使っていたギリシア語聖書に入っているのだから、そのまま『聖書』に含めました。その結果、『旧約聖書』はプロテスタントが66冊、カトリックは72冊となりました。

Q:『新約聖書』の「ヨハネ黙示録」で、七つの封印を解くのはなぜ子羊なのですか。

A:子羊はイエス・キリストを意味しています。

Q:『新約聖書』の「ヨハネ黙示録」で、第三の御使いがラッパを鳴らした後落ちてきた星・苦ヨモギとは何ですか。

A:植物の名前で、アブサンという酒の材料になります。ヴァイキングの間では死の象徴でした。ちなみにウクライナ語では、苦ヨモギをチェルノブイリといいます。

Q:キリストという言葉には何か意味があるのですか。

A:油をそそがれた者という意味です。

Q:クリスマスはキリストの誕生日というけど、ほんとなのか。

A:『聖書』にはキリストの誕生日は記載されていません。初期のキリスト教では、1月1日、1月6日、3月27日などが誕生日として祝われていました。紀元後4世紀頃のローマでは、ミトラ教という宗教がはやっており、その宗教は12月25日(当時の冬至)を太陽の誕生日として祝っていました。その習慣と結びつき、12月25日がキリストの誕生日となりました。これが正式に決定されたのは、325年に開かれたニケーア宗教会議でした。

Q:キリストにそそがれた油というのはどんな油ですか。

A:香油と書いてあります。素材はわかりません。喜びや祝福を象徴する物だそうです。

Q:どうしてイエス・キリストは十字架にはりつけられるような刑だったのですか。

A:イエスが自らを「神の子だ」といったことが神を冒涜するものであり、死刑に相当すると考えられました。はりつけは死刑の方法の一つです。即死ではなく、何時間もかかってゆっくり死ぬという残酷なものでした。

Q:キリストとバラバという二人の罪人のうち、一人を救う時、どうしてキリストが選ばれなかったのですか。

A:バラバは武力でローマを倒し、ユダヤ民族の独立を回復しようというグループのリーダーで、民衆の支持があったためです。

Q:イエス・キリストは3日後に生き返った後、どうなったのか。

A:『新約聖書』によると、ガリラヤの山上で弟子たちと再会し、こういいました。《行ってすべての国の人を弟子にせよ。私は世の終わりまでいつもあなた方とともにいる》

 そして40日後天に昇りました。

Q:マリアはその後どうなったのか。

A:イエスの死を見守ったとあるだけで、その後のことはまったくわかりません。

Q:死海文書を発見したのは誰ですか。

A:1947年、羊飼いの少年二人が、死海のほとりの洞窟の中で発見しました。

Q:世界最初の教会はいつ、どこにできたのか。

A:イエス・キリストが生まれたベツレヘムにできました。301年、作ったのはコンスタンティヌス

でした。

Q:アウグスティヌスの『神の国』という本はどういう内容か。

A:ゲルマンの侵入でローマが苦しんでいるのは、伝統的な宗教を捨て、キリスト教を国教としたからだ、という批判に対する反論として書かれました。神の国と地上の国の歴史・発展・運命を対比させているそうです。

Q:エフェソス宗教会議は誰が開催したのか。

A:ネストリウスと同じアレクサンドリアの司教キュリロスがかなり強引に開催しました。

Q:マニ教は、いつ、誰がどこで始めたのか。

A:3世紀初め、ペルシア人マニが始めました。この世界は光明の父スローシャーヴと暗黒の王アフラメーンの戦いだと考えるそうです。

 

X.東アジア世界の形成

Q:日本には、士農工商のように身分が固定された時代があったが、中国にもあったのか。

A:士農工商は本来、中国の言葉です。1949年に中国革命が成功するまでは、身分制社会だったといえるでしょう。

1.古代国家の成立

Q:中国で最初に起こった戦争は何ですか。

A:伝説によれば、三皇の時代の最後、神農氏の末期に政治が乱れ、諸侯がたがいに争った、というのですが・・・。

Q:殷の最初の王は誰なのか。

A:湯といいます。

Q:甲骨文字は誰が発見したのか。

A:清朝末期の1899年、劉鉄雲という人が発見しました。

Q:殷の時代には奴隷がいたそうですが、中国の奴隷はいつくらいまでいたのですか。何と呼ばれ、どんな仕事をしていたのですか。

A:中国では一般に、奴婢(ぬひ)と呼ばれます。国が所有する官奴婢は、家畜の世話、宮廷直属の作業場での労働などが主な仕事です。個人が所有する私奴婢は家事労働、代表的には男が農業、女が紡織でした。清朝末期の宣統元年(1909年)になくなります。

Q:殷は周に滅ぼされたといいますが、周はいきなりそんな強国になったのですか。それとも以前から対立していた国なのですか。両国の間で行われた一番有名な戦いを教えて下さい。

A:周は初め殷に服属していましたが、徐々に強くなりました。両者の勝敗を分けたのは牧野の戦いです。

Q:殷・周の時代の戦争はどんなものだったか。

A:馬で引く戦車を基本とします。殷の武器・矛が突くだけだったのに対し、周の戈は斬る事もできたため、それが周の勝因だったといわれています。

Q:周の時代はどんなものを食べていたのですか。

A:穀物・・・アワ、キビ、大麦、小麦、米。

動物・・・牛、羊、ウサギ、シカ、イノシシ、鳩、雁、ウズラ、キジ。鯉、フナ、ウナギ、ドジョウ、スッポン(これは高級料理)。

野菜・・・ニラ、ウリ、ショウガ、フユアオイ、タケノコ、ワラビ、タデ、ハス。

果物・・・桃、スモモ、梨、栗、柿、ナツメ。

Q:殷・周の時代、法律はすでに存在していたのですか。

A:慣習法としてはすでに存在しています。春秋時代の鄭の国の大臣・子産が、初めての成文刑法を作りました。BC536年のことです。

Q:西周を倒した犬戎はその後どうなったのか。

A:春秋時代までは活躍していましたが、しだいに秦と匈奴の攻撃を受けて衰えました。

2.春秋・戦国時代

Q:この時代の具体的な富国強兵策としてはどのようなものがありますか。

A:富国・・・治水、潅漑及び荒れ地の開拓。

強兵・・・服装を変え(今でいえばズボンを導入)、騎馬戦術を採用。

などです。

Q:春秋・戦国時代で、兵の数がいちばん多かった国はどこですか。

A:秦と楚のそれぞれ100万人です。

Q:この時代の軍の編成はどうなっていたんですか。

A:春秋時代は戦車が中心です。戦国時代以降は歩兵・騎兵に分かれます。また、軍の規模が急速に拡大し、それにともない戦争の規模も拡大します。

Q:中国には兵法というものがあるけれど、日本やヨーロッパの国々にもあったのですか。それと第一次世界大戦や第二次世界大戦の時に、中国の兵法は用いられなかったのですか。

A:日本にはあります。もちろん、中国の影響を受けたものです。ヨーロッパは19世紀ドイツのクラウゼヴィッツに始まると思われます。孫子の兵法は、ヨーロッパにも大きな影響を与えています。第一次大戦で敗れたドイツのウィルヘルム2世は、その後孫子の兵法を知って、《もっと早くこれを読んでいれば、あんな戦争はやらなかったのに》と語ったそうです。

Q:孫子の兵法の中で、もっとも高度な戦術は何ですか。

A:反間の計、つまりスパイでしょう。秦はこれを用いて、他の国を内部から切り崩しています。

Q:千年に一度しか現れないという麒麟はどのような場所で見つかったのか。

A:魯の国の殿様が山東省の大野(たいや)という所で狩をしていた時に捕まえたそうです。

Q:秦の商鞅が作った法律には、どのようなものがあったのですか。

A:戦争で手柄を立てた者は身分を問わず出世できる。農民を5人一組の班に分けて相互に監視させる、などです。

Q:春秋・戦国時代のころは、どんな文字を使っていたのですか。

A:篆書、正確には小篆です。

3.古代帝国の成立

Q:始皇帝は何歳の時に皇帝になったのですか。

A:38歳です。

Q:秦が作った半両銭の真ん中に穴があいているのはなぜですか。

A:何枚かずつを一まとめにしてヒモで縛るためです。

Q:万里の長城は何年くらいでできあがったのか。

A:紀元前214年に作り始めたということしかわかりません。その後の事情を考え合わせると、2年くらいでできたのではないかと推測されます。ただし、すべてを新規に建設したのではなく、戦国時代の各国が作っていた長城をつなぎ合わせたものでした。

Q:中国以外のユーラシアの国々もモンゴルやフンなどの遊牧民族に襲われていますが、なぜ中国以外では万里の長城のような巨大な城壁を作らなかったのですか。

A:巨大な城壁を作るためには、それに見合った国力が必要です。ローマ帝国がリーメスとよばれる長城を築いています。

Q:兵馬俑はどうやって作られたのか。

A:専門の職人がいて、兵士一人一人の姿を克明に写したものと考えられています。その証拠に、顔かたちが一つ一つすべて異なっています。

Q:陳勝・呉広の乱は、何人ぐらいで起こしたものなのか。

A:当初はせいぜい百数十人程度と推測されます。それが数日後には1万人余りにふくれあがって行きました。

Q:秦を滅ぼすに至った陳勝・呉広の乱の規模はどれくらいか。

A:『史記』「陳渉(勝)・呉広世家」には、戦車600〜700、騎兵1000余り、歩兵数万とあります。この反乱は、それ自体の規模ではなく、その影響の大きさに意味があります。

Q:宦官は去勢していたということだが、どのような方法で去勢したのか。麻酔などはあったのか。

A:麻酔はまだありません。自分から進んで宦官になる場合、専門に手術を行う商売人がいましたが、費用を節約したい人は家族や知人に頼んだり、自分でやったりしました。もちろんムチャクチャ痛く、時には血が止まらず、死んでしまうこともありました。

Q:劉邦はどのくらいの期間で漢王になれたのですか。

A:挙兵の2年後です。

Q:劉邦には三人のすぐれた部下がいたということだが、それぞれどんな点がすぐれていたのか。

A:蕭何(しょうか)・・・後方にいて食糧・武器・兵士をきちんと供給しました。統一後、劉邦は彼の功績が一番だったと評価しています。

   張良・・・軍師として作戦を立てました。

   韓信・・・戦えば必ず勝つ名将でした。背水の陣の元祖です。

Q:漢の高祖・劉邦というが、高祖とは何のことか。

A:廟号といいます。皇帝が死ぬと、その生前の業績を評価して謚号(しごう)というものが贈られます。文帝、武帝などがこれにあたります。また墓とは別に、宮殿内にその霊をまつる廟が作られます。その名前が廟号です。つまりすべての皇帝は廟号と謚号を持っているわけです。漢の高祖の場合、廟号が高祖で謚号は高帝、後漢の光武帝は廟号が世祖で謚号が光武帝というわけです。なお便宜上、隋までは皇帝を謚号で呼び、唐以降は廟号で呼びます。これは唐以降、謚号がやたら長くなったためです。

Q:冒頓は漢を侵略した後、何をしていたんですか。

A:その後も侵略をくり返します。漢との和約が成立してしばらくたった頃に死んでいます。

Q:オアシス定住民と遊牧民族との間には生活物資の交易が行われたとあるが、どんな物があったのですか。

A:定住民から遊牧民・・・農作物、手工業製品など

遊牧民から定住民・・・馬・乳製品・毛皮など

Q:呉楚七国の乱の中心人物は誰ですか。

A:呉王劉ヒ(さんずいへんに鼻を書きます。この漢字はワープロで出ない!)という人です。

Q:呉楚七国の乱が失敗した原因は何ですか。

A:漢の反撃が機敏だったこともありますが、本質的には国全体が統一・中央集権に向かって動いていたためでしょう。

Q:漢の武帝の時初めて年号が定められたとあるが、どんな年号ですか。

A:建元元年です。

Q:漢の武帝の本名は何ですか。

A:劉徹です。

Q:武帝や恵帝、霊帝というのは、後の人々の呼び方ですね。では生きている時は、どんな風に呼ばれていたのですか。

A:陛下あるいは上です。

Q:儒教を国教化することで、何かいいことがあったのか。

A:身分秩序を安定させるために、大きな効果がありました。

Q:五銖銭にはいくつかの種類があったのですか。

A:前漢から隋にかけて使われました。時代により多少異なるため11種類あるとのことです。

Q:塩・鉄の専売というが、それぞれどこでとられていたのか。

A:塩は四川省、山西省及び海岸地方、鉄の産地は結構各地に散らばっています。

Q:この時代の中国の食事はどうなっていたのか。

A:秦・漢の時代、皇帝は1日4食、貴族は3食、庶民は2食でした。

Q:古代中国に風呂や便所はあったのですか。

A:便所はあります。厠とよばれました。その下に豚小屋が設けられ、一種の資源のリサイクルが行われていました。風呂についてははっきりしません。《孔子が沐浴した》という記録がありますが、これはタライを使った行水と推測されます。風呂場は浴堂といい、北魏時代、お寺や宮殿にはあったそうですが、それ以前のことははっきりしません。

Q:シルクロードのもとの名はなぜ中国語でなくドイツ語なのか。

A:ドイツの学者リヒトーホーフェンという人が、論文の中でこの道を「絹の道」と呼ぼうと提案したためです。

Q:張騫の西域旅行でシルクロードが成立したみたいだけど、それ以前に東西交流はなかったのか。

A:あったとしてもごく小規模のものでした。意識的に積極的に取り組まれるようになったのは、これ以降です。

Q:班超はどこの人で、子供の時はどんな生活をしていたのか。

A:咸陽の出身で、『漢書』を書いた班固の弟です。家は貧しかったそうですが、子供の頃から大志を抱き、勉学に励んだということです。

Q:赤眉の乱の中心人物は誰か。

A:しいていえば樊崇という人です。

Q:赤眉の乱は、何人ぐらいで起こしたのか。

A:100人余りで始まり、1年ほどの間に1万人を越えました。

Q:赤眉の乱はどうして眉を赤く染めたのですか。共産主義の意味ですか。

A:共産主義とは関係ありません。赤は漢王朝のシンボル・カラーで、漢王朝を再興するという意味がありました。

Q:外戚と宦官の横暴はどれくらい続いたのか。

A:ざっと120年というところでしょうか。

Q:黄巾の乱に参加した農民はどれくらいいたのか。

A:36万人です。

Q:太平道とはどのような宗教だったのか。

A:自分の罪を反省し、教祖のおはらいを受けると病気がなおるということで信者を増やしました。

Q:この時代、身分によって乗る馬車が違ったということだが、一番身分の高い人はどんなものに乗っていたのか。

A:王は宝石で飾った五路あるいは五輅(らく)という馬車に乗ります。秦以降は6頭立てになります。西周時代については記録がありませんが、都の鎬京遺跡の車馬坑で出土したものは4頭立てです。

Q:中国の皇帝なんかが持っている扇子みたいなものは何ですか。また、いつごろからあったのですか。

A:笏(コツ、日本ではシャク)といいます。報告することを忘れないように裏にメモを貼りました。帝王は玉、諸侯は象牙、士大夫は竹で作りました。東周時代までさかのぼれるようですが・・・。