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6月4日:1879年 招魂社、靖国神社と改称

2002年06月04日


靖国神社の前身の招魂社は、戊辰戦争前後の官軍の死者を祭る場所として1869年に創建された。そのような性格のため、禁門の変当時に官軍であった会津の死者は祭られ、賊軍となって後の会津の死者は祭られていない。維新の功労者の一人である西郷隆盛も西南戦争(1877年)の首謀者として賊軍となり祭られていない。靖国神社は天皇への忠節によって死者を選別する。

太平洋戦争の際、政府・軍は国民に対して百%の協力を強制し、「一億火の玉」と煽った。しかし、勤労動員で作業中に艦砲射撃によって死亡した人々は祭られていない。東京大空襲の際、消火作業に従事し、ために焼死した人々も祭られていない。一方、1978年秋にA級戦犯東条英機ら14名は密かに合祀されている。「昭和殉難者」として。靖国神社は軍と官を重視し、民を顧みない。有事立法作成に際して、国民の協力を求め、その生命と財産の安全確保を一顧だにしない首相が参拝に固執するはずである。

長谷川伸『日本捕虜志』(中公文庫)下巻に補遺があり、戦後敵味方共に祭ることが日本の伝統であったことが豊富な実例で示されている。古くは、「怨みをもって怨みに報ずればその怨みやまず」として敵味方共の供養に努め、「すでに降るを殺さんとするは義にあらず」と捕虜を殺さなかった島津貴久。日露戦争の際、日本側は旅順の白玉山にまずロシア兵の忠魂碑をたて、2年後に日本兵の表忠碑を建てた。「きのうの敵の碑をまず建てその後に、我が側の物が建てられたのである」。日本の歴史の中に誇りとすべきものを見いだそうとする時に振り返るべき一書である。

「靖国の宮にみ霊は鎮まるもおりおり帰れ母の夢路に」(太平洋戦争中の国民歌謡)歌謡の作詞者の子息で歴史家の大江志乃夫氏の実証のとおり、英霊となる事は、同時に遺族の手元から引き離される事でもあった。英霊は、「おりおり」にしか遺族の元に帰れなかったのである。

東播支部ニュースNo.9 6月4日付より


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