見上げてごらん、夜の星を
オリオン座やシリウスなどの冬の星たちがにぎやかに煌めいています。星たちは、私たちの夢とか期待とか、後悔や悔恨、圧迫感や安堵感、等々のすべてのこころを、静かに、何のためらいも同情もなく、ほんとにひっそりと、壮大な無関心さでそこに存在しています。星の世界は、真実で、自然そのものです。それは、私たち人間社会の生活現実の背後に見えなくなっている世界です。
逆に、人間社会の生活の世界から自然との関係を考えてみると、この「人間社会」は、「自然から可能な限り離れている社会」だと言えるのじゃないかと思います。例えば、
「洪水のような自然災害を未然に防ぐ」とか、
「肉食獣がやって来ないように人間の住む縄張りから彼等を追い払った」とか、
「人間の食生活を支えるために農耕を営む」とか、
「住居を造り、道路を整備し、時刻を発明し、生活を社会化した」とか、
「インクの着いた紙切れに抽象的で象徴的な幻想を付与し、商品を交換する」とか……、
つまり、人間社会の生活は、「いちいち苛酷な自然状態に戻らなくても人間社会の中で生きていけるように、あらゆる事柄が、徐々に、特に近代以降になって急速に、システム化されてきた」、ということじゃないか、と。
言い換えると、現代の人間社会の生活は、「人工」「反自然」「自然からの逃亡」「砂上楼閣」というような言葉の持つニュアンスで朧気に言い表されるような社会システムの中に成立しているのじゃないか、ということです。ただ、ここで、「システム」という言葉を使ってしまうと、自己完結的なイメージが出てきてしまうのですが、そうではなく、その背後には、このシステム自身がそこから逃れようとした「自然」自身が、ひっそりと、地球あるいは宇宙という壮大な大きさと重さを湛えて、存在しています。この背景は「一切の人間社会についての壮大な無関心」としてあり続けています。
そして、人間社会の生活は、決して自己完結してはいないのですが、特に現代社会は、まるで本当に自己完結しているかのように、自然から切り離されて、根無し草のように右往左往しているようにも思います。
つまり、本当は、自然が背後にあることによって「自然からの逃亡」であり得るのですが、その根っこのところ(自然への現実感覚)が見えなくなって、さらには自然を切り離して、何だか現実生活を非常に危うい虚構のレベルで守ろうとしている……。
現代の人間社会の生活が患っている症状が一体どこから来ているのか、という解答のひとつが、ここにあるような気がします。現代社会が日常的に見失っている自然への視点を、生活の背後に身体の感覚として持つこと、そして同時に、その身体感覚を土台として人間社会に立っていること。そういうことが、大切なのではないか、と思うのです。
編集後記
★私たちが生きているこの(時代の、世界の、日本の、社会の)現実は、両足で着地できる基盤を失っていて、砂上楼閣(フィクション、幻想)となってしまっている。★例えば「学校というのは一体どんなところなのか」と考え、そしてその答を探し出そうとすると、「何故こんな危ういシステムが生き残っているのだろう?」ということになってしまう。破綻して久しいシステムが、私たちを飲み込んでいる。★では私たちが自分の両足で立つべき「現実」とは一体何なのか、辛うじて存続し続けているシステムの内側で自らシステムを守る尖兵となって矛盾を回避しようとするのか、それとも破綻していることに踏みとどまって矛盾を修復する道に迷い込むのか。砂上楼閣の、一体どこに「現実」と呼ぶべきものが見出せるのだろうか? ★そういうとき、地に足が着かずに浮遊しているのは、私一人ではなく、ほんとに沢山の人たちがそうなのではないか、と思えて不安になる。(meiro)
県高支部ニュースNo.28より
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