私(国本衛さん)は、在日コリアンです。私はハンセン病にかかり、1941年、14歳のとき東京の多摩全生園に収容された。「ハンセン病療養所」に収容されると、二度と社会へ出ることは許されなかった。それは「らい予防法」という法律があったからである。
私と同室にいた山井道太は洗濯場の主任だった。ある日、洗濯に使う長靴に穴が開いて使えなくなったので、代わりの長靴を要求した。断られたので洗濯場の部員たちは怒って作業につかなかった。療養所側はこれをストライキとみなし、扇動したのは山井であると決めつけた。山井は、群馬県草津町にある栗生楽泉園に送られ、「特別病室」という名の重監房に入れられた。この重監房は、獄死したものが22名いるが、そのうち凍死が19名というきびしい環境である。山井も44日目に重体に陥り、出獄後病室で10日もしないうちに死亡した。
この事件は、ハンセン病の歴史の象徴である。
私は、1999年3月26日、仲間21名とともに東京地裁にハンセン病違憲国賠訴訟を起こした。提訴の根底には、日本のファシズムに対する闘いと同時に、在日コリアンとしての植民地支配に対する闘いがあった。韓国のハンセン病発症率は日本の10倍。ハンセン病は、貧困病であり植民地病であるとも言える。
1999年7月13日、第1回公判で、国側は20年の「除斥期間論」を持ち出し、既に訴える権利が消失していると言って、逃げ切りを図った。私は、彼らの主張に肩が震えた。それなら私たちの現在の苦しみは一体何なのか。私も、今C型肝炎を患っている。いつ肝臓ガンになるかわからない。この原因は、20年以上前にハンセン病の症状を軽くするため行われていた「大風子油注射」の「回し打ち」によるものではないのか。過去と現在を切り離すことはできない。私はこの怒りを、公判で意見陳述した。意見陳述をしながら、国側被告席をにらみつけた。陳述を終えると法廷内に大きな拍手が涌いた。裁判長の制止はなかった。
2001年5月11日、熊本地裁で全面的な勝利判決が下された。内容は国家政策を断罪し、国会の不作為に対してもきびしく追及し、20年の除斥期間も退けた。マスメディアはやっと真実を理解し、私たち原告団に全面的に協力した。
2001年5月23日、私を含む原告団代表と小泉首相は面談した。国は控訴を断念し、私たちの勝利が確定した。
しかし、90年もの間、患者たちは療養所の生活の中で、人間の魂を奪われ、人間の精神構造を変えられ、去勢されていった。私たちが原告団として立ち上がったとき、療養所内ではゴウゴウたる非難の声が沸き上がっていたのだった。
「俺たちは『らい予防法』のお陰で命が助けられたのだ。」
「お世話になっている国に対して裁判とは何事か。」
「あいつら、そんなに金がほしいのか。」
などの非難中傷である。また、「らい予防法」が廃止された1996年、ときの菅直人厚生大臣は、全国の患者代表を集め謝罪すると言った。だが、「らい予防法」の過ちは認めず、
「『らい予防法』の見直しが遅れた」と言った。
それでも患者代表たちは、口々に
「ありがとうございます。」と礼を述べた。
私はそれをテレビで見ていたが、これはおかしいと感じた。何故感謝するのか。
前述の通り1999年、己の人生に悔いなく生きるために私は提訴した。入所者たちからどんなに非難されようとも、私の信念は正しかったと胸を張って生きたかった。今もなお、在園保障、退所支援、真相究明などで、患者・元患者たちは厚生労働省を相手に闘っている。「日本の未来が見える日」まで闘っていきたい。