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ナショナリズムという妖怪(神戸県立支部)

2004年06月15日


ナショナリズムという妖怪

 小泉政権になって、有事関連法案、教育基本法改悪、憲法改悪、と、戦後の60年間に渡って日本を守ってきた基本的な枠組みを立て続けに変えようとし、またそのための既成事実づくりが、いとも易々と、しかも頻繁に繰り返し行われています。それは、小泉以前の政権でも水面下で進めてきたものではあったにしても、こんなにもあからさまに攻勢をかけてきたことはなかった。勿論、それは今と同じくかつても憲法違反だから、国民もマスコミも黙っていなかった……。それが今になって何故、みんな黙ってしまっているのか?この巨大な反動に対して、私たちの抵抗は何故こんなにも不釣り合いに小さいのか?

ひとつにはアメリカスタンダードのグローバリゼーションのもとで日本の大企業の生き残りをかけて、市場経済導入による政府の(国民への医療福祉や、教育の機会均等などについて)責任放棄政策からの必然という側面がありますが、

もうひとつには、自らの失政の結果をナショナリズムの幻想で覆い隠すことによって、国民を戦前体制へと戻し、政府の独走への批判を封じ込めて、逆に政府への協力体制を国民レベルで煽ろうとする意図、という側面もあります。例えば、国民レベルでの「非国民バッシング」が起きるというのは、ナショナリズムで国民を煽動しようとする政府にとって、願ってもない現象なのです。そして、マスコミも国民も黙ってしまう。下準備は、できていたのです。

 ここでは、バブルが崩壊した後、いつのまにか私たちの周囲にじわじわと、次第に濃密に立ち現れてくるようになったナショナリズムについて、考えてみたいと思います。

 ナショナリズムの立場は、いくつもの内的な失敗をすべて等質にひっくるめて隠し、「日本」という中心軸へと無批判に傾倒(魂のよりどころ)する立場です。「内的な失敗」というのは、実は国民レベルの医療や福祉、年金や預貯金、教育等についての、それぞれ重大な失政です。重大であるにもかかわらず、ナショナリズムの中では、仮想的な敵の幻想の中で、「日本のために我慢すべきこと」として、すべて等質に、それぞれに内面化され、「仕方のないこと」にされてしまいます。丁度、戦時中に、戦争にまつわる行為の批判をすることが「天皇陛下」への批判であるとされて、「非国民バッシング」の対象となったように。それは、非常に「政治的」な態度であって、町内会でお互いを相互監視しあうような、心の在り方の問題です。政権の側からすると、無責任体制のなかで好き勝手にできる、どんな言い訳を用いてでも言いくるめられる、公表したくなければ黙っている、そういう(戦時中に国民をだまし続けた)体制です。

 中教審の答申に、繰り返し繰り返し「心」にまつわる言葉が出てきて、多くの学者が、これは「心への攻撃だ」と述べていました。その中で多用されている「涵養」という言葉は、「じわじわと染み込ませてその色に染め上げていく」という意味で、心への執拗なナショナリズムの攻撃であるという点では北朝鮮批判で言われる「洗脳教育」と同じです。その延長線上に、「愛国心を強制する」という非常に危険な発想があります(この道はいつか来た道)。
 ナショナリズムの立場が標榜する「愛国心」は、「国のために我慢する」ということ、つまり、「批判せず、自分のできる奉公を、自分の能力に応じて為せ」ということ、そして「エリートは、衆愚(愚かな民衆)を導くために胸を張って先頭を歩け」ということです。答申の責任者である三浦朱門が、「できない子は、文句を言わず働くことを養えばよい」という内容のことを言っています。それが、彼らの言う「道徳」、「心の教育」です。そこには、例えば「国の誤りを批判するような愛国心」は、考えられていません。

 このとき、「日本」とは、一体何を指しているのでしょうか? 現憲法が言うような、主権者たる国民のことではあり得ません。暴走する政府のことですらありません。国民が我慢して守るべき「日本」という実体は、実は、自ら生み出した仮想敵から日本を救い、同時にアジアのリーダーである日本は正義と理想の国であらねばならない、という「崇高な義務」についての共同意識のことなのです。これこそが、ナショナリズムの内包する矛盾なのです。それは、まず、他者への蔑視の上に成り立っている内的なイメージです。イメージであるが故に、「日本」は、「魂の拠り所」として、絶対性へと高められることにもなります。戦時中の「天皇」のように、です。そこでは、それへの反論は理解不能になっています。戦後、何故アジア各地における、あるいは沖縄における、あるいは天皇自身に対する、戦争責任が問われ続けることができなかったのか、という理由の一つがここにあるように思います。戦時中のナショナリズムは、屈折したまま、戦後をずっと生き延びてきたのです。

 例えば、東京都知事石原慎太郎は、中国人の犯罪が続いたとき、「中国人という民族的DNAが感じられる」と言いました。けれども、犯罪歴のない彼等が犯罪を犯したのは、彼らが中国人であったからではなく、彼らが日本に居たからです。「犯罪のDNA」は、日本で身につけたのです。石原達には、そういうことが見えません。無意識のうちに罪を仮想敵になすりつけ、そうすることによって、「日本」を相対的に上位に置いてしまうのです。気に入らないことは、見えないか、別の理由になってしまうのです。
 例えばHIV問題で、弱い被害者であった患者を手弁当で援助していた小林よしのりは、川田さんが主体的に活動し始めると、猛烈な反感と憎悪を持ち、攻撃側に回ってバッシングを行います。そこには、自分が「弱い者の味方」であり続けるために、相手を弱いままに置いておきたがる矛盾と傲慢さが現れています。彼には、自分の変節(裏切り)が見えないどころか、相手にそれを投影してしまうのです。

 これらの例は、ナショナリズムがエリートの立場であり、支配者の顔をしていることを示しています。彼等は、「自分は正しい」という心理的(幻想的)な確証(心証)を持っています。それが、「輝かしい日本を救う」ということです。急いで付け加えると、「自分の輝かしさとともに」ということもです。このことは、ナショナリズムが避けることのできない恣意性と、どうにもならない無責任体質をも明らかにしています。


編集後記
★あまりにたくさんのことが、あまりに短期間のうちに押し寄せてくる。★経済発展という名のもとに戦後のレールをひた走ってきた日本が、1990年代に急激なカーブを曲がった。★曲がってしまったのは、私たち大人だ。もうすぐ、洪水がやってくる。★この日本を受け継いでゆく子どもたちに、どう説明し、どう納得してもらえばいいのか。(meiro)

県高支部ニュースNo.09より


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