教育におけるナショナリズム
〜ナショナリズムという妖怪(2)
教育基本法には、
(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育行政)
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
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とあります。
つまり、教師は、子ども達に対する教育について、不当な口出しをする文科省や教育委員会を介さずに、国民全体に対して直接責任を持たねばならない。教育行政は(教師に多忙を押しつけて現場のロボットと化してしまうのではなく)、教師の教育活動を支える諸条件の整備を行わねばならない。これは、かつて教育(学校現場においては教師たち)が教え子たちを大量に戦場に送り出すことを積極的に自分の責務としたという苦い経験そのものから導かれた条項であり、憲法の前文や第9条と双子のように響きあっているものです。これは、現教育基本法の生命です。
現在、教育基本法改悪の諸案は、前号の支部ニュースで掲載した改悪案でも出ている通り、この第10条を削除して、行政が教育内容を主導することを明記しようとしています。 それを予感させるような状態が、ここ数年急激に右傾化してきた東京都教委の反動的な攻勢のなかで次々に起きています。例えば6月8日、東京都議会での代表質問のなかで、「君が代日の丸」についての問題が触れられました。
(http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/honkaigi/2004-2/d5124001.htm)
自民党都議の教育関係の質問も、それに対する都教委の回答は、まさしく「支配者」の側からの、「学校教師という衆愚」への管理統制を徹底することを目指すものでした。
主題のひとつは、「君が代」を卒業式や入学式で斉唱する事について、です。「教師は生徒を指導しなければならぬ」、だから「(生徒に歌わせることのできない)指導力不足の教師や、あろうことか着席したままの教師は、処分した」、それは「当たり前のことだ」、と質問者も都教育委員会も言っています。(注:処分不当の裁判が始まろうとしています。)
そこには、「行政がすべてを決めるから教師は従え!」=「教師は俺たちエリートの言うことを聞くロボットであれ!」=「教師は行政(教育委員会)に忠実であれ!」=「内面の自由など教師にはない!」ということだけが怨嗟のように渦巻いています。
なかなか言うことを聞かない教師を今度こそ目にものを見せてやる、と、「教員に対するさらに強力な命令を校長に出させる」とか、「処分を徹底する」とか、「無期研修所送りにする」とか、「生ぬるい校長も配置換えする」とか、ここまで徹底するとその発想基盤が見え透いてしまうところまで行っています。
彼らは、「お上の言うことを聞かせる」ことに躍起になっています。言い換えれば、「自分はそのことがどういう結果を招来することになるか責任は持たないけれど、お上が決めたことをないがしろにする奴を懲らしめる責任は持っている」という「やくざの論理」を振りかざしています。その「お上が決めたこと」は、「日本に対する忠誠心を形で表すこと=ナショナリズムによる形の強要」です。もちろん、これも「やくざの論理」です。
彼らは、「お上」の紋章を振りかざしながら、「この紋章が目に入らぬ奴は切って捨てる」と息巻いています。「決められたことについては、全員が例外なく一丸となってことに当たれ」ということです。
ここで、その「お上が決めたこと」は、支配者側にとっては「どうしようもないほど崩れ始めた日本をナショナリズムのもとに再構成する」ということ、つまり「自分たちが壊して来てしまった日本という現実にナショナリズムの幻想の衣を被せること=自分の罪を問わなくても済む恣意的な世界に逃避すること」であり、自分を正当化することです。
彼らは、教育を批判しているつもりなのですが、その批判の異常さが、実は自分自身の罪の棚上げの異常さと連動していることに気付いていません。
勿論、右にしても左にしても、「自分の言っていることは正しい」と言い続けるような議論は不毛です。起立して斉唱することを強制されるのは絶対にイヤだし、かといって何が何でも着席したまま口を閉ざせ、という強制もイヤです。それは、どちらも「幻想の強要」であって、個人の内面を縛る強制であり、このことに関しては誰も退くことはできません。退いてしまうと、私たちは、システムの中のただのロボットになってしまうでしょう。けれど、教師がロボットになることは絶対に不可能なのです。何故教師がロボットになれないかと言うと、それは、私たち教師が日々接している生徒たちが、決してロボットではないからです。
でも、もし、教師が「お上の決めた上意下達のシステム」のなかのロボットになるという「責任」を果たし、やがて生徒がナショナリズムのもとに「涵養」されると、責任の連鎖は究極的な「戦争という国家規模の無責任」へと拡散されていくでしょう。
そういう構図を、東京都教委は再び描こうとしています。
編集後記
★東京都議会の膨大な速記録を見ながら、怒りはやがて溜息に変わっていった。この人たちは今、私たち教師を支配していると思い込んでいる。★私たちは今、こういう人たちをも相手にしなければならなくなったのだ。★教育の現場に音もなく忍び寄る妖怪たち。★私たちはこれらの攻撃に対して、充分な視覚と聴覚、感受性を持っているだろうか?(meiro)
県高支部ニュースNo.10より