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6.最後の問題「こころ」
………内心の自由への攻撃
2002年春、文科省は、全国の小中学校に(小学校は2学年ずつの3冊、中学用1冊で、計4種類の)『心のノート』というきれいな本を一斉に無償配布しました。道徳の国定副教材としてです。始めは、「強制ではない」という態度でしたが、やがて、全国規模で「使用状況調査」を行って、使用強制へと圧力をかけてきました。君が代日の丸とまったく同じやり方です。
中心人物の一人である河合隼雄(現文化庁長官)は、「教育は国家の統治行為である」と明言しています。これは「国家は国民の心を統治せよ」と言っているに等しいのです。つまり、文科省のねらいは、義務教育の9年間、子どもを文科省発のメッセージに繰り返し繰り返し触れさせ、包み込んで、国が求める「心」を造ることなのです。
心のノートは、文科省(教育行政)が教育を根本から統制しようとする教基法「改正」の先取りであるわけですが、その中身を見てみましょう。4種類とも、4つの主題からできています。執筆にたずさわった人(尾田幸雄)の解説によると、その4つの主題は、
- 自分自身を真剣に見つめる心
- 他の人を優しく思いやる心
- 美しいものや気高いものに素直に感動する心
- 世のため人のため、公共のために進んで尽くそうとする開かれた心
です。学校の教師ならずとも、「その通り!」と言いたくなる項目です。
これらの項目は、それぞれがいくつかの項目に分けられ、第4主題の最後で「愛国心」に辿り着きます。この、各主題で練り上げられた「心」のたどり着く場所(愛国心)は、どのようなものでしょうか。それは、(日本という国によって)自分が育てられ、支えられてきたことへの「感謝」が、いつのまにか「報恩」へとすり替えられ、「現状そのままに素直に感謝して受け入れよう、それを批判することはいけないことだ」ということへと誘導されているのです。それが改正原案が求める「公への忠誠」=「愛国心」です。戦前戦中の「精神主義」が連想されます。
このことは、教基法「改正」について、前河村文科大臣がかつて「平成の教育勅語を念頭において議論したい」と言ったり、「神を祀る神社は……この社会にあって不遜な言動を自ら慎ませ、道義心を養った……」と言ったりしていたことと符合します。
まさに、「心のノート」が「修身の国定教科書」となり、教基法が新しい「教育勅語」となるのです。というのも、現行法は、教育勅語による「国民精神総動員」という惨禍の反省に立って、国家権力による内心の自由への攻撃を禁止する前提で書かれているのに対し、「改正」案では180度向きを変えて、(爾臣民、と語りかけた教育勅語と同じく)国家が国民の義務だけでなく、思考の枠組みさえもを規定しようとする立場に変わってしまうからです。「讒言(不遜な言動)を嫌う独裁者」の構図が、見えています。
文科省はこれを繰り返し繰り返し子どもに読ませ、確認させ、押し付け、……そういう使い方を指示しています。それをするのが教師の義務だ、と。繰り返し繰り返し、じわじわと、染料が生地に染みこんでいくように……それが、「涵養」という言葉の原意です。
つまり、教基法は、一方で教師を縛り、もう一方で子どもの「心」を縛り、つまり内心の自由そのものを支配しようとしているのです。改正原案第2条に出る6項20個にわたるこころの徳目について、国家が具体的に、教育を通じて、内心の自由をじわじわ締め上げ、攻撃し続けることによって、やがて内心の自由を放棄させ、国家に忠誠を誓う「臣民」を作り上げようとしているのです。
そんなこと(内心の自由が無くなること)が、実際に起こりうるのでしょうか?
たぶん、このままで教基法が「改正」されると、いとも簡単にそういう状態に「滑り落ちてゆく」場所は、今の日本の中に確かにあるだろうと思います。
2004年4月、3人の日本人がイラクで人質になったとき、「自己責任」バッシングが大規模に起こりました。読売新聞は、
「自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係機関などに、大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題である」
と論評しました。
これらの意見に共通しているのは、「国が言っていることに何故従わないのか」ということです。
国が一生懸命やっていることを、何故信頼しないのか、
何故邪魔だてするのか、
なぜ反抗するのか、
という反感なのだと思います。たぶん、その中には「はらわたが煮えくり返る思い」が言葉の端々に感じられるものもありました。たとえば……
イラクという遠い国が戦争状態かもしれないけれど、戦争は回避できないのだ。回避できないことをとやかく言ってもどうしようもないじゃないか。人を救う、とか称してあたかも自分こそがヒューマニストでございます、みたいな顔をするな。考えることは自由かもしれないが、子どもじゃあるまいし、それを実行したりして、日本のために重い任務を背負ってイラクに行った自衛隊の邪魔になるようなことはするな。私たち国民の「和」を乱すな。恥を知れ。
彼らの言っていることは、誘拐した武装グループに同情的で、まるで、自分の国である日本を敵対視している。それは言語道断・本末転倒だ。それは、日本があまりに自由で、しかも国民を甘やかしているから、そういう愛国の情に欠けた輩が出てくるのだ。もっと、ピシッと統制し、日本人として自国に誇りを持つようにしなければならない。奴らは日本の恥だ。
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というような内容を持つ意見です。
しかし、ただの意見ではなく、悪意ある誹謗中傷が伴いました。
これは、どう見ても戦前戦中の「非国民」扱いと同じ心理なのです。そういう傾向が確かに今の日本にはあるのではないでしょうか。あるいは、戦前・戦後一貫してそれはあったのですが、それほど強く現れずに見過ごされていた、のかもしれません。その傾向は、バブル膨張からその崩壊という社会不安が増大する中で、互いに「同じ空気のなかの仲間」であることを確認し合って安心するかのような、そんな、生活保守主義とでもいうべき思考の枠組みをともなって強く醸し出されてきているようなのです。ここで注意しなければならないことは、そのなかで「安心している」人々にとっては、その空気が掻き乱されるのは非常に「嫌」なのだ、ということです。
本当は、その枠組みは、人をどんどん狭い場所に追い込んでしまうのに、中にいる限り人はその狭さを感じないし、心理的には安心なのです。その場所は、日本という国の動向によって左右されます。だから、その空気の中で生きている人は、たやすく自分を「日本の、権力を持つ人々」に同調させてしまいます。だから、日本が強ければ強いほどいいし、(自分自身がどうなのかと関係なく)プライドを持てます。(そういう自分たちも含めて100人のうち99人が切り捨てられるかもしれないのに)国家権力に服従し、その権力の威を借りて、自分より弱い立場や異質なものに対しては優越を保持し、その優越を誇示しようとする(相手を、まるで仇討ちのように攻撃する)のです。
でも、その狭さを感じさせられるのは非常に不愉快なことなので、「外を見る人・外から見る人」を本能的に嫌い、徹底的に攻撃する。そういう「思考の枠組み」が実際に現実的な勢力を伸ばしてきています。バッシングが行われたのは、そういう場所からであったのです。
その場所は「安心のファシズム」とでも言うべき場所です。それは「日本という国家」に「家」のように愛着し、排他主義的な傾向を持ちます。例えば、「仮想敵」とされた北朝鮮への経済制裁を声高に叫び、自分たちと異なるものたちを排除します。権力的なものにすり寄り、権力(日本)に批判的な人々を罵倒します。
そのような「空気」が、教基法の「改正」が何の抵抗もなく滑り落ちてくる土壌です。そして、行き着く場所は、村八分を恐れて相互に監視し合いながら、日本のために「一身を投げ打つ覚悟」がたてまえとなっているような社会です。
この種の、「日本という空気」の内部に沈潜する思考の枠組みは、「内心の自由」が外に表現できなくなった状態です。やがて「内心の自由」そのものも枯渇していきます。それは例えば、ナチイデオロギーを支えたドイツ国民がいた場所であり、日本の悲惨な戦争を支えた国民性です。
今、その亡霊が、「国家全体の命運をかけて」蘇ろうとしているのです。
編集後記
★卒業式のシーズンを迎えている。東京は再び日の丸君が代を巡る地獄を繰り返すのだろうか?★教基法「改正」案では、教師は「国家の下僕」であることを強いている。教師は国家のロボットであれ、と。★けれど、教師は決してロボットになることはできない。★なぜなら、教師が日々接している子どもたちが、決してロボットではないからだ。
県高支部ニュースNo.36より
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