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「エリートの使命感」の欺瞞、その行き着く先(神戸県立支部)

2005年03月15日


「エリートの使命感」の欺瞞、
その行き着く先


1.「自己啓発セミナー」と労務管理

 以前、「自己啓発セミナー」というのが流行りました。90年代始め、私の同僚が(もともとおとなしく、どちらかと言えば気弱なタイプの教師だったのですが)、高額な参加料を払ってその種のものに参加した後、まわりの者が(同僚教師も生徒も)驚愕するほどに変身したのを覚えています。
 例えば、「学校」という価値観に対して反発する生徒に、彼はもともと「話を聞いて、自分の立場とのジレンマに悩む」タイプの非常に温和な先生だったのですが、その「自己啓発セミナー」のあとは、「一切の反抗は許さない」という感じで、集会中であろうが授業中であろうが、生徒を引きずり出して大声で叱責するようにさえなっていました。
 「洗脳された」と言う以外適切な言葉が見つからないのですが、それが数ヶ月続いて、やがてもとの温和な先生に戻りました。「歯車に徹する」という選択を自分で選び取れば誰でもそうなるのだろうか、と、何だかイヤな気持ちを持ちました。

 その「自己啓発セミナー」は、次のような構造を持っています。

(「『カルト資本主義』斎藤貴男著、文春文庫'00刊」から編集)
  1.  自分が今悩んでいる場所で、自分のおかれている立場を肯定する。
     例えば、学校には色々矛盾はあるが、自分は学校教師である。まず、迷いから抜け出すためにその「学校の教師」という立場を肯定する。そこから、セミナー側は、参加者達の迷いを吹っ切っていく。
  2.  その場所で自分がよりプラスになるようイメージを持つ。
     例えば、「勝っていく」こと。自分が「勝つ」というイメージを強く持つ。そのためのワークショップがセミナー側から用意されている。高額な参加料を払った大勢の参加者たちは、精神を集中させて取り組み、だんだんと「本当の自分が持っている強さ」が自分のなかに現れてくるのを感じる。参加者は、日頃抑圧していたものが取れて心が晴れていくように感じる。自分は「エリート」であり、他を引っ張っていく義務があるんだと強い使命感を感じる。
  3.  自分がそういう自分であると信じる。
     今まで「生徒と同じ目線」で迷っていたのは、自分のなかの「弱い部分」だったと反省する。真実は、自分が彼等を引っ張っていくために、「強い自分」を信じること。信じることによって本当に「強い自分」になれる。自分は、その「勝っていく自分」である。(このあたりで、参加者のなかには、「遂に本当の自分に遭遇できた」と号泣する者さえ出てくる。)
  4.  強く思えば実現する、と信じる。
     今まで自分が「弱い部分」に埋もれていたのは、「強い自分」になるためのバネだった、と信じる。学校が持っている様々な矛盾は、自分が「強い指導者」として「勝っていく」ための「神の思し召し」なのだと信じる。何ごとも自分にとって必然であり、必要であり、その中で自分のベストが築き上げられていくと信じる。「強く思えば、何ごとも実現する」と信じる。すべては「気の持ちようなのだ」と。

 このような、いわば「新興宗教」とでも言うべき「自己啓発セミナー」的な「エリート(洗脳)教育」は、多くの大企業で労務管理の一環として社員研修に導入され、日本の経済発展に人生を重ね合わせた「会社人間」を作りあげていったのです。企業の経営者にとって大切なことは、従業員が経営者と同じ立場に立つことだ、ということがその裏にはあります。そのなかで、過労死や、家族離反や、精神疾患が多く報告され始め、やがて、自殺者が交通事故死を上まわってしまいました。

2.「公」と「エリート意識」と「民主主義」

 そこにあるのは、民主主義ではなく、すべてが(経営者も労働者も)同一の志向(利潤を上げる)を持つ全体主義です。
 ところで、鈴蘭台高校と鈴蘭台西高校の統廃合を、まったく住民無視で机上計算のみでやってしまおうという流れに乗ってしまう県教委のメンバー達や、先日明らかになった西宮今津高校を現場の教職員の圧倒的な声を無視して「総合学科」に改編しようとする校長の心理の底を流れているのは、この種の「エリートとしての洗脳」によって民主主義の基本を見失っている姿ではないでしょうか。
 個々よりも「公」が大切という場面もある、という事実があることは確かです。でも、その「公」とは一体何なのでしょうか。限度を超えて「公」が突っ走ってしまったとき、一体どうやって「民主主義」は生き延びられるのでしょうか。「個々のわがままを聞く余裕はない」という声が聞こえてきそうですが、「公のわがまま」によって、どんなに大きな傷を日本は受けたか、見ない聞かないふりをするわけにはいかないのです。

 チョムスキーという著名な言語学者は、次のように言っています。
 実際に使われている民主主義という言葉には、二つのまったく正反対の意味がある。
  1. 自分の生存条件の社会的決定に参加できる制度
  2. 民衆の目を逸らさせ、決定には参加させず、時々賛成とか反対とか言わせる制度

 誰がどう考えても、今、現実の「民主主義」は、前者ではなく、後者の意味に使われ始めています。何故そうなるかというと、9条改憲を主張して日本を変えようとしている政治家勢力は、もう既に「エリートとしての洗脳」を、終えてしまっているからです。
 今、国会議員の9割が、国民世論とは逆に「改憲に賛成」だと言われています。また、7割が親(祖父)が政治家だった(つまり、2世・3世の政治家である)と言われています。彼等は、こんなセミナーに依らなくても、「勝ち組としてのエリートの発想」をしているのです。
 私たち国民を衆愚として扱い、怠惰な国民を正すために自分たちが日本を導いていく、そのためには「多少の」ガマンを国民に強いるのは当たり前だ、そのくらいがわかるくらいに国民を教化しなければならない、と当然のように考えています。
 それが、「教基法『改正』法案」に出ているわけです。
 ここで恐ろしいのは、そのようなエリートを支持する人々が多すぎる、ということです。例えば石原都知事は、300万票という圧倒的な支持で再選されました。「エリートはほんの一握りでいい」と言った三浦朱門の言葉と裏腹に、半分以上が、あからさまに「エリートの側を支持」しているのです。つまり、切り捨てられることになる人々の多くが、自分を切り捨てる側を支持している、という奇妙で巧妙な構図がここにあります。

3.師範学校の再来

 今、東京都教委は、「教員志望者のための塾」を立ち上げようとしています。都内の大学に対して、有望な教職希望者を送れ、と命令しています。その塾で「洗脳」(4年生で約80日間入塾)した者を優先的に採用する、という方針です。定員100人という枠で、各大学を恫喝しているのです。これは、戦前の、国の意向を教師が体現する「師範学校」の発想です。ここで都教委の要求する「教育のノウハウ」をみっちり身につけた若い教師集団が、各学校でナショナリズムの再生産を果たします。つまり、各学校で、強烈に「公」への奉仕を、つまり「滅私奉公としての愛国心」を伝道師のように説き、強制し、洗脳し、拡大していくのです。

 「教師は、教え子を二度と戦場に送らないために、越えてはならない或る一線がある。」
そのことを、絶えず心に留めていなければならない、と、そう思います。

 例えば前述の彼が、「洗脳」が時間と共に薄れる前に再度そういう「自己啓発セミナー」に参加し続けるようになれば、しかもそれが彼ひとりではなく学校の教職員の大半が参加するようになれば、そしてそれを、例えば文科省の命令によって各都道府県教委が強制的な官製研修として実施するようになれば、そのときこそ戦後60年の平和憲法の理念もろとも教育が崩壊するときなのではないか、と思います。

 そのときになって慌てるのではなく、今できることを、やっていきましょう。


編集後記
★命令系統のなかでは、命令は上から下に降ろされる。★その時、下に対する責任ではなく、上に対する責任だけが意識されがちだ。★西宮今津の出来事は、人間として持っていた良心が、「校長」という肩書きによって殺された、ということなのか。★ただの命令の運び屋など、現場には要らない。

県高支部ニュースNo.38より


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