Home支部・単組・分会より新着情報

教育のリストラ(神戸県立支部)

2005年04月19日


教育のリストラ

 文科省は、各高校が独自に特色化を打ち出せ、と言っています。だから、日本全国どこでも、特色化は各高等学校のメインテーマのひとつになっています。議論することはよいことだと思います。それによって、生徒の人格の形成が柱になるような学校へと良くなっていくのなら、それは本当にいいことだと思います。
 けれども、特色化を打ち出した或る小規模な高等学校では、教師から「本当にしんどいから明日にでも統廃合して欲しい」という声が出ています。これは、現場では特色化ということがどういう結果になっているかという一例です。つまり、一時的な優遇は馬の鼻先に下げられた人参みたいにあるようなのですけれども、恒常的な予算は付かないしスタッフも増えない、教師は専門外の授業を不十分な準備で始めなければならない、教材研究の時間はなかなか取れない、生徒と向き合う時間はなくなる、ストレスはたまって精神的にゆとりが無くなる、……という状態になっている。つまり、客観的に言うと、「特色化」というのは、キャッチセールスみたいなもので、中身は変わらないのに、しかも無理しているから中身は杜撰になっていて、名前を変えてあたかも新製品みたいに売り出された欠陥商品なのだとさえ言えるのではないか、と思われます。ただ、県教委にしてみれば、それで対外的には「教育改革」していると胸を張れるし、文科省への顔向けもできるし、教育予算も削れるし、と一石三鳥なのです。でも、それは、現状では、詐欺なのです。

 文科省も県教委も「生徒のニーズに合わせて」という言い方をします。「生徒のニーズ」って一体何なのでしょう。「勉強したくない」というのはニーズなのでしょうか。「教育を受けたくない」というのはニーズなのでしょうか。「特色化」とは、生徒の学力を底上げするシステムではなく、勉強したくない生徒を、基礎学力を付けないままで卒業させるシステムをも容認するのです。生徒を、学校が付け焼き刃で提供する各種講座の消費者に見立てて、それが「生徒のニーズ」だと言うわけです。
 教育課程審議会会長であった三浦朱門が有名な言葉を残しています。「できない子はできなくて結構、できない子にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」と。それを読んで、私は本当に絶望的になりました。この言葉が意味するところに対してではなく、当の私自身が、この言葉を忠実になぞっているからなのです。
 かつて「ゆとり教育」が始まった時に、その「ゆとり」の時間を生徒にどう対応するかでゆとりを無くして以来、教師はずっと「ゆとり」を失ったままです。ゆとりを失った教育現場は、教育行政の上意下達の命令の通りに機能してしまう危険性の中にあります。

 このことを生徒の側から言えば、生徒の「学力」について、できる子はできる、できない子はとことんできなくなる、といういわば教育の「貧富の差」が激しくなってきている、ということです。
 さらに、生徒に「未来」を語ることが難しくなってきています。今や、頑張った子にも、頑張れなかった子にも、等しく未来は閉ざされたままです。教師は、生徒の進路の相談で、自分は嘘つきではないか、と苦しんでいます。

 憲法十二条に、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とあります。戦後60年、私たちは、その「不断の努力」をしてきたか、ということ、これが、非常に重い課題となって私たちの上にのしかかってきています。けれど、九条の会の奥平さんが言っていました。「向こう側がこんな所まで来てしまったのだから、いまさら何をやっても遅い、と言って諦めてしまうと、それはそのまま、向こう側に黙って賛同したことになる」と。だから私たちは、諦めてはいけない。私たちには「絶望」は禁止されているのです。


編集後記
★政府による反中国キャンペーンが始まっている。反北朝鮮キャンペーンは継続中だ。★ちょうど1年前、政府による「自己責任」や「弁償」キャンペーンでイラク人質の3人への攻撃を作りあげたように。★ところで、もしあなたが中国人なら、あなたは日本大使館に石を投げるのではないか。★今、底なし沼のような混乱の始まりが告げられている。

2005県高支部ニュースNo.02より


パスワード