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あれから15年〜神戸高塚高校事件を振り返る〜
私達教師は一体何をしているのか〜4(神戸県立支部)

2005年06月28日



あれから15年〜神戸高塚高校事件を振り返る〜

私達教師は一体何をしているのか〜4

神戸高塚高校事件(校門圧死事件)について……

 1990年7月6日(1学期期末考査初日)午前8時30分、神戸高塚高校で、「遅刻指導のために閉められた260kgの鉄製の門扉とコンクリート製の門柱の間に、始めての遅刻を避するために走り込んできた石田僚子さん(15歳)は頭を挟まれ、夥しい血を吹きながら倒ました。約2時間後、運び込まれた病院で、御両親の到着前に、亡くなられました。


(注)この記事は、1995年の県高支部ニュースに掲載されたものです。(N)

 事件後、校長は真夜中過ぎて加古川の自宅まで帰り、家族との少しの会話・食事・風呂等を済ませてすぐ学校へ戻り、学校で仮眠を取るという毎日を繰り返していました。疲れ切っているようでしたが、正直で実直な人でしたから、自分で感じていること、自分が知っていること、以外は余り口にしませんでした。だから口数は少なく、口を開いても、結局同じようなことを言ったり、前回言ったことについての誤解を丁寧に解こうとしたり、そのような人でした。私は、ここで別に校長の人物論をしようというのではありません。一私人として好人物であるか否かということと、その人が職務上の責任をどのように処理するかということとは、ほとんど関係ないからです。ただ、校長が口を滑らせたいくつかの言葉が、当時マスコミを怒りの渦に巻き込んだので、この校長こそが高塚=管理主義教育の原因、という誤解は解いておきたいと思います。校長弁護、ということではなく、校長の責任を限定しておかないと、私達教師自身の主体性が見えなくなってしまうからです。

 校長の言葉として、2つあげておきます。

「もうあと10分早く来てくれれば……」

 この言葉は、事件の翌朝、体育館で行われた全校集会のなかで発せられた願いです。けれども、校長がこの願いを口にするとき、彼は石田僚子さんのことを離れています。何故、こんなことを彼は言ってしまったのでしょうか。
 この願いの裏にあるものは、言い換えればこの願いを、彼が「言うべきかどうかいろいろ迷ったが言うことにした」と後で述懐しているように、どうしても押さえておけなかったほど強い願いにしているのは、彼の、「学校」という制度への信頼感及び、学校という制度への義務感なのではないか、と私は思うのです。例えば、あなたが学校現場の教師ではなく、外部の学校評論家なら、「遅刻があるのは当たり前じゃないか、なんでそういう当たり前のことを当たり前として受け入れられないのか?」という当たり前の疑問を言っても別に問題はないのです。でも、学校の内部の現場教師は、学校という制度のもとでの教師であり、日常の学校生活の様々の場面で「かくあるべし」という事が「かくあらねばならぬ」となり、「かくあらせねばならぬ」こととして、「教師としての義務」感を作り上げ、その義務感に支えられて、教師の日常をつくりあげているのです。

 1500人もの思春期を、同一の基準の下で同一のラインに乗せるという不可能性は、少し考えれば誰にでもわかるはずなのですが、「学校」という制度は、その誰にもわかる筈である事に対して、「学校は、本来完全に機能する理想集団であるべきだ」という幻想的な理念に身を寄せ、そこから振り返る形で、理念から遠い現実への負の視点を構成してしまう傾向があるようです。
 つまり学校の教師は、学校というこの幻想的な理念から現実への逆向きの視点を持つことによって、この現実を「何とかしなければならない現実」として捉える傾向があるようなのです。でも、その視点のなかでは、教師自身の具体的な私生活の実態とか、あるいは自分自身の思春期当時の私生活の実態とかは捨象されてしまう傾向もあるようなのです。

 また、校長の、どうしても言っておきたかったというこの言葉には、このような視点がいつも陥る「恨みがましさ」が宿っています。校長の願いは、そして同時に恨みは、教師である私には痛いほどよくわかります。でも、それは、「空を飛びたい」と願い、実際には空を飛べないのを恨むというのと同じ次元なのかもしれないのです。若い教師が、自分の努力に対する生徒の鈍感さへの恨みを独り言として口にするのはわかりますが、校長としては、たぶん、口が裂けても言ってはならなかったことだと私は感じるのです。

「形から入る指導も必要だ」

 教師になるまで、私は「有名進学塾」の講師をずっと続けてきました。生活は乱れていて、昼夜逆転は当たり前でした。それが三十才近くまで続き、「結婚するためにはちゃんとした仕事をせよ」ということで兵庫県の教員の採用試験を受けることになりました。その後、給料は半減したものの、生活は規則正しくなり、それまでの自棄的な生活感覚が、矯正されました。「形から入る指導」という言葉に対して、私はいつも自分のその頃の生活感覚の急変を思い出します。「形から入る指導」は、非常に有効な指導です。私には身に染みています。けれど、それは、あくまでケースバイケースの個人指導であって、全体への一律指導ではありません。

 けれど、誰しもが、理想の学校を、現実の学校の対極に見ていたのです。私達は、その現実を理想へと橋渡しするための方策を、例えば遅刻者を一気に0にするための方策を求めたのです。それが、ペナルティ主義を伴う校門指導であり、マニュアルに指示された種々の指導項目であったのです。新設校である神戸高塚を良くしていくという共通の意志のもとに、60名を越える教師一人一人が共通して取り組めるように、それらは生まれた筈だったのです。だから、それらは、その指導に関係のある生徒全体に対して、公平に、一律指導の形をとりました。
 そして、校門事件によって崩れたものは、たぶん、それらの指導を根底から支えていたもの、つまり、「理想の学校」そのものだったのだと思えるのです。

(次回に続きます)

2005県高支部ニュースNo.11より


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