(4)6/3、授業中にケンカ:謹慎学年第1号
名前と顔がお互いに一致しはじめたころ、生徒たちの緊張もほぐれていった。授業に笑い声が戻ってくると同時に、中学時代の生活態度も表われはじめていた。
「我がまま」は一番弱い(?)先生の前でまず現われた。女性教師の音楽の授業で、クラスの半数以上が遅刻したのである。
S先生は始業ベルが鳴る前に教室で待っていて、ベル後に入った者は全て遅刻扱いとして指導されていた。ベルが鳴ってから職員室を出る教師の多い中では、そうしたS先生に不満を持つ者が多勢であった(*)。
6月3日、音楽の授業中、二人が殴り合いをはじめ皆が止めにはいるという事件が起きた。Tが後の席からOの背中をシャープペンでつっ突き、二人がいがみ合っているところに、Nが「O、ちょっと来い」と声を掛け、Oは席を立ってNのところまで行き「なんや!」と返す。NはそのOの胸倉をつかみ、ボタンがちぎれ飛んだ。戻ろうとしてさらに足げにされたOが怒りNの胸倉をつかんでいったという。
Nは、「その授業のはじめに、3・4人が遅れて入ってきたとき、先生が間違って僕の名前も呼ばれた。先生は謝っていたが、以前にも遅れまいと走り込んだ時も、遅いとゴチャゴチャ言われたこともあって気持ちがムシャクシャしていた」と述懐していた。
授業中の雰囲気から放置できないと判断し指導部に報告、学年第1号の謹慎処分となった。反省文には、
N:「自分は今までS先生を嫌な感じ(遅刻指導について)だと思っていたが、今ではどの先生よりも偉いと思う。(略)クラスのみんなに迷惑を掛けたことをとっても悪かったと思っています。今後、K1でこんな処分を受けるような事がなくなってほしいと思う」
O:「みんなが喧嘩を止めてくれたから怪俄もなく済んだけど、もしそうでなかったら、どうなっていたか分からない。K1のみんなに『ありがとう』と言わなければならない。もうこんなことは起こしてはならない。注意し合っていきたいです」
と述べ、二人ともクラスを意識していった。
私は、「K科に対する以前からの悪評」を述べ、君たちこそが「誇れるK科の創造者」になり得ると期待を語る一方、
@どんな場合であれ、暴力は決して許されない。民主主義を否定し、歴史に逆うことである。
A授業を妨害し、クラスのみんなに迷惑をかけた。
B授業はクラスのみんなで創り出していくもの、一人ひとりがどんな姿勢で臨んでいるかが問われていること
などを訴えた。そして、謹慎解除の日、二人はみんなの前で謝罪し、クラスは大きな拍手で迎えた。その後卒業するまでに喧嘩が2度ほどあったが、各々行事に取りくんでいる時で「兄弟喧嘩」に似たもので、一層友情を深めていったものである。
Nは、夜間大学に進学、今年すでに高校教師として教壇に立っている。彼は今の生徒たちを「僕らのときと比べて覇気がない」と評している。
(*)……K1の教室から、音楽室へ行くには、1棟の4階から1階に降り、2棟に渡って、その3階へ登っていかねばならず、4棟で授業があれば、それこそ「めんどうな道のり」でもあった。
「教室の窓はガタガタだし、いちいち1階に降りて、また2棟の3階まで上がるのはいやだなァ。
1棟から2棟へ3階の渡り廊下があったらいいと思う」とY君が学校の第一印象を述べる中で「要求」していた。このガタガタの窓は1年後、「航空騒音防止工事」でアルミサッシに改造されており、「渡り廊下」は彼らが卒業した年の秋に設置されたのである。
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(石倉先生のお話は、次号に続きます。)
2005県高支部ニュースNo.14より