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高校教育改革の背景(神戸県立支部)

2006年02月21日



高校教育改革の背景
(S.N.)

 数年来、高校教育改革の波が押し寄せてきているが、その背景には、「新公共経営論(NPM=ニュー・パブリック・マネジメント)」という考え方が浸透している。公共の仕事が公務として行われているが、その効率化を図る目的で導入されてきたものである。

 ところで、そのNPMの考え方の基本として、

  1. 顧客主義(「顧客の多様なニーズ」に合わせたサービスを)
  2. 成果主義(業績目標を設定し、その達成を目指す)
  3. 市場主義(保護の壁を取り払い、自由競争原理を取り入れる)
  4. 現場主義(現場に権限とともに責任を委譲し、自由な発想で取り組める体制を)
というようなことが言われている。

 1980年代半ばのイギリスでこのような発想が公共部門に取り入れられるようになった背景には、財政の逼迫や、政府の失策と無策に対する国民の批判の増大、新自由主義的改革を強権的に押し進めるサッチャー首相の存在(1979-90)等があった。また、アメリカではレーガノミクスと呼ばれたレーガン大統領(1981-89)の改革があった。いずれも、財政再建を通して、時代を勝ち抜くための「強い国家」を目指していた。

 この「考え方の基本」の実態について、具体的に見てみることにする。

1.顧客主義

 営利を目的とする民間の唱える「多様なニーズ」とは、本当は市場を誘導しようとする企業戦略のもとで作られていく。営利は、待つものではなく、創るもの・誘導するもの・開拓するものだからだ。たとえば、あれやこれやとあり得ない美の幻想を振りまく化粧品の数々。たとえば、激しい前宣伝に先導されて半年ごとに新製品が出されるコンピューター等の家電製品たち。駅に溢れる旅のパンフレットたち。モーターショーの華麗な賑わい。

 学校では、ニーズもないのに無理矢理設定し、教師を多忙化させる特色化。同様に、ニーズがあるかのように設定され、教師を多忙化し、生徒を混乱させる選択科目の数々。

 でも、たとえばJR西の事故を思い返せば、企業が重視しているというその「顧客の多様なニーズ」のなかに、たったひとつ「安全」は含まれていなかった。というより、「安全」には値段が付いていないので、企業のサービスの対象である「顧客のニーズ」から、前もって外されていた……「顧客のニーズ」は、実は「企業のニーズ」なのかもしれない。

 市場主義と結びついた「顧客のニーズ」とは、「市場を形成する各種サービスの競争」のなかに消費者を巻き込むことであり、消費者にとっては、無意識のうちに形成される「消費への脅迫観念」なのだ。特色化をしなければ生き残れないと思い込む学校もまた同じ。

 ただ、そのように形成される「顧客のニーズ」に組み込まれない(ほど貧しい人々の)層の増大は、「顧客の自己責任」として無視されている。

2.成果主義

 成果(業績)とは自らが参入している「市場を育成・維持・誘導すること」であり、市場を通じて「顧客のニーズ」を具体化することである。たとえば、新しくもない化粧品を売り込むために新しい幻想を煽ることである。たとえば、安全確認を差し置いて過密なダイヤを設定して運転を強制することであり、そこから外れる運転手に「日勤教育」を課すことである。そういう危険性を孕んでいる。

 学校現場では……、いい受検生が他に取られるかもしれないと危惧して、特色化や選択科目のキャッチコピーを宣伝し、現場に責任一切をかぶせることになっている。

3.市場主義

 政府による公共投資がうまくいかず、また、世界規模に膨れ上がった大企業の要求もあって、80年代頃から「自由競争市場という神の見えざる手」という古い言い回しが、無責任なエリートたちによって信じられるようになった。そこには一定の企業倫理が想定されていたが、実際には「なりふり構わず」に、市場を荒らし回っている。何しろ、予定調和を司る神の見えざる手が、バランスを回復してくれるはずなのだから。

 価格破壊の一方で、談合が繰り返され、労働力や恋愛までが商品となって市場に投げ出された。介護が必要な老人や、子どものわがままもまた、そのまま商品となった。すべてが投げ出され、企業の「多様なニーズ」戦略の網の目に絡め取られた。ただ、網の目は粗いので、貧困層はどんどん対象から外されていった。そのようにして、資本は、上へ上へと吸い上げられていった。そして今や、階層社会が当たり前のように喧伝されている。

4.現場主義

 「業績を上げる」ことが、市場主義経済の中では目指される。その目的のため、現場は「責任を委譲されて」いる。「責任の委譲」とは、本来「権限の委譲」であり、自由な議論が保障されているはずなのだが、実際には、その現場が、命令を実行する責任を持たされるだけで、旧態依然としたトップダウンの命令系統のままに置かれていることが多い。

 たとえばJR西の事故の背景は、そういうことであった。

 NPMの理念は、命令系統のピラミッド構造を簡素化して、現場が問題を議論できる場であることが大切であるのだが、「責任部分」だけの導入に終始してしまうことが、このような最悪を招く。この方式を現場に押し付けようとする上層部自体にうまく機能していない、ということは、ただの笑い話ですませられることではない。

5.高校教育改革について

 日本社会で、NPMは、行政の執行部門に対して部分的に導入されてきたが、それがうまく機能してきたとはお世辞にも言えない。つまり、イギリスでの「成功」の2匹目のドジョウを狙うとはお笑いぐさだ。それがわかっていながら、それでも「タイタニックを止められない」のは、歴史における慣性の法則、または日本的風土の問題なのかもしれない。

 しかし、今まで見てきたとおり、日本型NPM導入物語は、あまりにもずさんである。そのずさんさを一言で言えば、理念を棚に上げ、権限を手中に残したまま、現場を市場に投げ込んで責任をとらせる、という構図であろう。

 それを、その構造のまま、教育現場に適用しようとすればどうなるか。

 しかし、その悪弊はここ数年吹き荒れている。どこを切ってみても金太郎飴となっている「特色化」、正規スタッフの雇用を閉ざして臨時で凌ぎながら現場への仕事の押しつけ、なんの説明もできないままの高校の統廃合問題、悪化する賃金等々である。県教委は、自らへは適用を失敗したままのNPMを、その最悪のパターンで現場に押し付けようとしている、ということだけは、いままでの議論で、見えている。しかも、その県教委みずからが、混乱の中で、教育破壊の号令をかけている。そして、教育予算大幅削減の至上命令は、小泉政権のもと、すべてのことに先行して、見切り発車してしまっているのだ。


編集後記
★入学・進級・卒業というサイクルの中で、学校って一体、何だろう?★外圧による学校の変貌の中で、学校は悲鳴を上げているように感じられる。★かつて、未来は輝き、その輝きを、教師は自信を持って生徒に指し示していた。★今、混乱の中、未来の再構築は可能なのだろうか?

2005県高支部ニュースNo.37より


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