教育基本法と憲法改悪に反対する草の根運動−東灘区の市民集会から−
つくろう平和・守ろう憲法
〜遠ざかる戦争の記憶 しのびよる足音〜
三連休の初日、9月16日,東灘区民センター(うはらホール)にて,「平和のための戦争展inひがしなだ実行委員会」の主催で上記の講演がありました。講師を県高支部選出の中央執行委員の永易茂雄氏がつとめ,沖縄やイラクを題材にした総合学習での実践から教育基本法と憲法の重要性の説明がありました。以下に,永易氏本人による講演要旨を紹介します。
1.子どもたちは、私たちの仲間だ
沖縄やイラクを題材にした(総合の)授業で、生徒たちの感想は、深い悲しみと怒りを表現していた。子どもたちの心は、信頼できるものだ、と思った。授業で取り上げる前の、「こんな遠い昔の戦争や遠いイラクの戦争なんか、僕らには関係ない」と言われるのではないか、という危惧は、きれいに消えた。子どもたちは、私たちの仲間だ。
私には3人の子どもがいる。数年前、アフガニスタンが米軍によって激しい攻撃の下にあったころ、真ん中の娘が、「何でアメリカ軍は爆弾を落とすのか。爆弾を落とせば、下にいる人は死ぬんじゃないのか」と、私に説明を求めていた。娘は、そのことに激しく動揺しているようで、涙をためて私に怒りをぶつけてきた。私は、父として、大人として、しかも教育に携わる者として、何か言わなければならなかった。けれど、何も言えなかった(誰も、娘が納得するようには、説明できないだろう)。だから、その頃聴いて、深い感動を感じていた「さとうきび畑」という歌を題材にして、娘に手紙を書こうと思い、書いているうちに、戦争の許し難い悲惨さを訴えるものに変わっていった。そして私は、戦争の悲惨を語るのは、親としての、大人としての、教育に携わる者としての義務なのだ、と思うようになった。
2.子どもたちは、変わってしまった。
私は、数学の教師で、生徒からは、「おもんない」「うざい」とか言われる立場にある。「それって、コンビニで弁当を買うのに役に立つん? 役に立たないのなら、そんなもの僕には教えないでくれ」と言った生徒もある。何かが、決定的に違っている、ような気もする。では、先ほどの「子どもたちは私たちの仲間だ」ということとの矛盾は一体何なのか。
私は、四国の片田舎、農耕社会と産業社会の混在のなかで育った。その頃、地域社会は、「よく遊びよく学べ」という言葉が、何の皮肉もなしに成り立っていた。「身を立て名をあげやよ励めよ」という「仰げば尊し」の歌が、卒業式で必ず歌われていた。その頃子どもだった私たちは、自分の未来を信じ、「お前ら頑張れ」という地域社会に支えられていた。
「頑張れ」という激励に対して、「何のために?」と反論することは、昔は、「反抗」だったかもしれない。しかし今、反論ですらなく、ごく当たり前に問い返され、それに対して答えられない社会になっている。一体、何処で社会は変わってしまったのだろう?
「福祉目的税」とか言われて始まった消費税は、17年目になる。去年までの16年間に、消費税の総額は、148兆円になっている。一体それは、何処に消えたのか。その金額にちょうど見合うのが、大企業の「法人税減税」で、この16年間に、145兆円になる。つまり、「仕方ないんだろうな」ということで始まった私たちの消費税は、結局法人税減収の穴埋めに使われただけなのだ。しかもその上に、福祉・医療・教育などの分野で、「受益者負担」「自己責任」の政府によるキャンペーンの下で、さらに増税されている。 日本国憲法は、福祉社会の憲法でもある。その精神が、なし崩し的に壊れつつある。
1990年代に、何かが破綻し、破綻したままズルズルと私たちは飲み込まれている。国の暴力に、何の対抗策もないまま、その不安の中で私たちは、「毎日毎日決まり切った仕事をすること」のなかに逃げてしまおうとしているのではないか。それどころか、小泉人気や石原人気がずっと続いている。人気を支えているのは、彼らの犠牲者になろうとしている私たちである、という矛盾の不可解さ。
また同時に、私たちの社会が破綻し始めた頃から、徐々に上向きになって、今や史上最高の利潤を上げつつある日本国籍の多国籍企業を中心として、労働者への福利厚生が、どんどん削減されている。雇用形態も、破壊されつつある。
たぶん、昔の子どもも、今の子どもも、本質的な違いはないのだ。ただ、子どもは、「社会の鏡」なのだという、この重い事実が、本当に重要なのだと思う。
今の子どもが映し出しているのは、「(私たちが)未来を見失った」ということなのだ。
3.教育基本法「改正」について
80人のキリスト教徒と、20人のイスラム教徒が住んでいる社会があって、その社会で「宗教を一つに統一しよう」という動きを仮定してみる。その時、血を血で洗う惨劇が始まってしまうだろう。民主主義の多数決原理は、そういう限界を持っている。では、それを防ぐために、その社会の代表者を選んで、そんな惨劇が起こらないように、つまり、住民の生命、内心の自由を絶対に守るように枠組みをはめる、という約束事が行われる。それが、近代憲法が立っている場所であり、それは、「立憲主義」と呼ばれる。だからこそ、憲法は、私たち国民を縛るものではなく、権力を持つ「代表者」を縛るものなのだ。
では、ブッシュのアフガニスタン・イラクへの先制攻撃は一体何なのか。それは、アメリカ連邦議会の承認という、民主主義的な手続きを経ている。けれども、アメリカは、立憲主義の限界を突破し、全世界に、「一つの宗教」を強制したのだ。
その危うい立憲主義を念頭に置きながら教育基本法「改正」案を見ると、私たちの未来について、本当に恐怖の物語が始まろうとしているのがわかる。
教基法「改正」について、二つの側面がある。
一つは、国家の教育に対する命令を、斜めに立てかけた板に水を流すようにしようという側面と、もう一つは、その流れに反抗してあちこちでバシャバシャと水を跳ね飛ばそうとする生意気な教員を打ち砕こうという側面と。
憲法改悪に先立って俎上に上げられた教育基本法は、立憲主義の防波堤でもある。そこが決壊すると、本当に、恐怖の未来が待っている。そして、次期首相と言われる安倍晋三が、その恐怖の未来を「美しい国」だと言い換えて、教基法を潰すんだと息巻いている。
何故そんなことがあり得るのか。つまり彼等は「向こう側(保護区)の人」なのだ。小泉とブッシュの間に、既に国境はない。「保護区」は、国境を無くし、「保護区外」を「餌場」として従えている。そして、富める者はどこまでも富み、貧する者はどこまでも貧する、という血で血を洗う「恐怖の未来」を待望しているようだ。その中にいるエリートたちは、既に、「保護区外」への想像力を失っている。そして私たちもまた、想像力を失い、見ざる言わざる聞かざるという、毎日の多忙な生活に没頭しているのではないのか。
2006県高支部ニュースNo17より
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